イエスの弟子として生きる 2006年1月

 池袋の雑踏を歩いていた時です。車イスの人に呼び止められました。見るからにホームレスと思われる老婆でした。「そこまで押して行ってもらいたいんだけどね」。介護の訓練を終えたばかりでもあり、いい経験になると思って、車イスを押して行きました。そのうちに、向こうから来る人たちが刺すような目でわたしたち二人を見ていることに気がつきました。わたしはお手伝いをしているだけですよと心の中で弁解したり、そんなふうに自己弁護する自分が恥ずかしかったり、落ち着かない気持ちでした。あそこに行ってほしい、こっちにも、と言われるままにずいぶん歩いてから、わたしも用事がありますのであとはだれかほかの人に代わってもらいましょうねと言って、別れました(ほんとは用事などなかったのに)。近くの交番で事情を話し、あの人のことをお願いしますと言って家に帰りました。この経験を夫に話すと、彼は言うのでした。「そのおばあさんのことをイエス様と思ったらどうかなあ」。

山路美華


 わたしが働いているお宅のマルチーズが死にました。しばらく具合が悪くて心配していたのですが、その犬の亡きがらを抱くと、ガラガラに痩せていて、あんまり軽くて、びっくりしました。そこのご主人は以前にも犬を飼っていて、その犬が死ぬと寂しさを紛らわせるために、すぐ代わりを飼うようにしてきたのだそうです。けれども今回は違いました。もう次を飼うのはやめたと言うの です。「私も歳だし(80過ぎです)、もし私のほうが先に逝ってしまうことになったら、誰があとに残る犬のめんどうを見ることになるのだろうと考えてしまう」とのことでした。そういえばわたしだって、ずいぶんたくさんの人を先に送りましたが、わたし自身もいつ召されるか、ほんとうは分かりません。それがいつであってもいいような生き方を、いつも心がけなければならないと思いました。

徳永多衣子


 『愛する人が襲われたら?』という本があります。そういう時にどうするのかというのは平和主義を生きようとする人に対して、ほんとうに絶えず投げかけられる質問です。教会のなかでもこの質問を度々耳にします。わたしだって孫娘に襲いかかる人がいたらほってはおけない。相手にむしゃぶりついてゆくでしょう。ただそれで孫が守れるかどうかは別で、かえってマイナスの結果を生みやすいというのが、この本の主張なのでしょう。わたしはイエスさまについて行くと決心して、弟子にしていただいたのです。弟子ならば、先生の生きられたようにわたしも生きて行くのが当然です。弱い人たち、苦しんでいる人たちの友となり、偽善を暴き、不正と戦って、ひたすら神の御旨に従ったこの方は、結局十字架にかけられて、いのちを落とされたのでした。答えは出ています。イエスさまの歩まれた道を、まよわずに歩かせてください。これがいまのわたしの願いです。

大野和子
 
   
 
 
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