二条后(藤原高子)復后の詔

   二条の(さき)(きさき)本位に復する詔
菅 三品(菅原文時)

(みことのり)すらく、(ちん)菲虚(ひきょ)なるも(かたじけな)くも鴻業(こうげふ)()げり。  徳義の(まつりごと)(ほどこ)し、治理(ちり)(ふう)(いた)さんことを思ふ。  元慶(ぐわんぎやう)の皇太后、在昔(むかし)徽号(きかう)(とど)めて、(さき)の皇太后と(しょう)す。  椒庭(せうてい)の月長く(しづ)かにして、芝砌(しせい)の霜多く改まる。  未だ煥汗(くわんかん)に及ばざるに、早く徳音(とくいん)を断てり。  往事(わうし)耳にあり、朕(なお)(いた)む。  (かるがゆゑ)に追ひて本号(ほんこう)に復し、芳魂(ほうこん)を慰めん。  青苔(せいたい)故宮(こきゅう)には、(たと)ひ光を雨露(うろ)の影に増すことなくとも、白楊(はくやう)荒隧(こうすい)には、 (こひねが)はくは(さら)に風を山陵(さんりょう)の声に(へん)ぜんことを。  (あまね)く天下に告げて、朕が(こころ)を知らしめよ。  主者施行(しゅしゃしぎやう)せよ。
.....天慶(てんぎやう)二年五月廿七(にじゅうなな)

(『本朝文粋』巻二、詔・48)

  《テキトウな超意訳》
 詔することには、朕は能力が無い身ながらも、もったいなくも天子の位を継いだ。
 人間として行うべき徳義の政治を行い、世の中を穏やかに治めたいと思う。
 元慶の時代の皇太后(藤原高子)は、昔その皇太后の尊号を停めて、「前の皇太后」と称していた。
 月に照らされる後宮は長く人も無く寂しくて、皇后宮の庭の霜も年月を経て改まっていった。
 まだ皇太后に復するという詔が出されないうちに、前の皇太后(高子)は早くに亡くなられた。
 それはすでに昔のことではあるが、朕は今も心を痛める。
 よって、追贈して元の号、皇太后に復し、魂を慰めて差し上げたい。
 古い宮には青苔が生え、皇太后に復したからといって宮が光り輝くというわけではないが、はこやなぎの植わった陵墓へと続く道が荒れているのにつけ、はこやなぎに吹く寂しげな風よ、どうか陵墓に吹く音を変えてほしい。
 広く天下に告知して、朕の意向を知らせよ。
 司る者は、これを施行せよ。

  《原文》
 詔。 朕以菲虚、忝嗣鴻業。  思施徳義之政、以致治理之風。  元慶皇太后、在昔停徽号、称前皇太后。  椒庭之月長閑、芝砌之霜多改。  未及煥汗、早断徳音。  往事在耳、朕猶慟焉。  故追復本号、以慰芳魂。  青苔故宮、縦無増光於雨露之影、白楊荒隧、庶更変風於山陵之声。  普告天下、俾知朕意。 主者施行。

 読み下し分になっていたので、解説見つつ意訳してみました。菅原文時(ふみとき)作、「二条の前の后本位に復する詔」です。 ちなみに、これを詔として出したのは、朱雀天皇になります。

 二条后とは、藤原高子。藤原長良の娘で、関白基経の同母妹。
 清和天皇に入内して陽成天皇を生み、陽成天皇の即位を受けて元慶六年(882)皇太后となりました。
 しかし同八年、陽成天皇は退位。高子とともに二条院へ遷御。  この後、寛平八年(896)9月22日、僧善祐との醜聞を理由に皇太后の尊号を廃されました。
 延喜十年(910)、廃后のまま死没。
 天慶六年(943)、没後33年にして皇太后に復す詔書が出されました。

 菅原文時(899〜981)は、余談だが、陰陽師で有名な安倍清明の師の賀茂忠行の次男で文章生となった慶滋保胤のお師匠(ややこしい)で、『陰陽師』にも出てたりしましたな。
 菅原高視の次男、道真の孫に当たり、3歳のとき祖父の左遷を受け、一家離散の憂き目に遭いました。
 35歳で文章生、44歳で対策に及第。その後大内記や左小弁を経て天暦十年(956)文章博士になりました。
 康保元年(964)式部権大輔、天延二年(974)正四位下、貞元二年(977)式部大輔、晩年に至り再度に渡って従三位に叙せられんことを申請し、やっと天元四年(981)正月に従三位に昇ったが、その年の9月に83才で没しました。
 とまあ、祖父の左遷の煽りを受け、官位も吹けば飛ぶようなものでしたが、詩文の才能は抜きん出て、大江朝綱と並んで菅江一双と賞賛されました。
 彼の典雅優麗な詩文の表現は当時の詩人たちの手本となり、文時の体を習えといわれました。
 この「二条の前の后本位に復する詔」は、文時45歳のときの作品です。

 藤原高子の復后は怨霊とかを恐れてではなく、「もうそろそろいいかな」って具合に出されたもののようです。
 実際、かなり年月が経った後での復位だったので、当事者たち、后位を廃した兄の基経、時の宇多天皇、その子の醍醐天皇まで亡くなっていました。
 高子の子・陽成天皇はとても長生き(歴代天皇第3位記録保持者)なので存命ですが、高子の醜聞も、兄・基経との確執も、陽成天皇に対する光孝天皇系の皇統の後ろめたさも、もはや遠い世代の出来事で、皇太后を廃したままにすることに意味がなくなってきたのでしょう。
 それに、この頃にはもう『伊勢物語』が普及し、浸透していたでしょうから、高子の后らしからぬ奔放さにも、感情的に理解が広まったのやもしれません。
 皇太后を廃した原因は何とも追及せず、亡き高子の名を慕わしく偲ぶかのような表現からするに、亡き不遇の皇太后の亡霊なんかよりも、一人の奔放な女性としての二条后のイメージアップが勝った、そんな印象です(←独断と偏見)。

参考図書 『新日本古典文学大系 本朝文粋』
              

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