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*今川・武田・北条相関図
<北条氏>............<今川氏>.............<武田氏> |
| 今川・武田・北条 相関年表 | ||
|---|---|---|
| 年 | ||
| 1537 天文六年 |
2月10日 | 今川義元(19才),武田信虎の娘(19才)を娶る |
| 1538 天文七年 |
− | 今川義元の嫡子,のちの氏真(母は武田信虎女)誕生 武田晴信(信玄)の嫡子,のちの義信(母は三条公頼女)誕生 北条氏康の嫡子,のちの氏政(母は今川氏親女)誕生 |
| 1541 天文十年 |
6月 | 武田晴信(信玄),今川義元との了解のもと武田信虎を駿府に隠居させる |
| 1550 天文十九年 |
6月2日 | 今川義元室(武田信虎娘・信玄の姉)が死去 |
| 1552 天文二十一年 |
11月27日 | 武田義信(15才),今川義元の娘を娶る |
| 1554 天文二十三年 |
7月 | 今川氏真(17才),北条氏康の娘を娶る |
| 12月 | 北条氏政(17才),武田晴信(信玄)の娘(12才)を娶る | |
| 1560 永禄三年 |
5月19日 | 今川義元,桶狭間にて戦死 |
| 1567 永禄十年 |
10月16日 | 武田義信,幽閉されていた東光寺にて自害 |
| 11月 | 武田義信室(今川義元の娘・氏真の妹)駿府に送られる | |
| 1568 永禄十一年 |
3月 | (寿桂尼死去) |
| 12月 | 武田信玄,駿河に侵攻、駿府城陥落 | |
| 北条氏政室(武田信玄の娘・黄梅院)甲府に送り返される | ||
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.駿河の今川、甲斐の武田、伊豆の北条、東海・中部地方に覇をなしたこの三氏は、寿桂尼が30・40代の頃、当主は今川氏輝・義元の頃、勢力を拮抗させ、三角形を描くような勢力図を持ちました。 .寿桂尼の娘の一人(瑞渓院)は再従兄弟にあたる北条氏綱に嫁し、また三男・義元が武田信虎の姫を娶るなど、今川氏と北条氏、今川氏と武田氏のそれぞれ二国間の婚姻政策は、まず寿桂尼の子の世代に行われました。 .寿桂尼の孫世代では、有名な三国同盟、今川の姫を武田の嫡子に、武田の姫を北条の嫡子に、北条の姫を今川の嫡子にするという、三国間でぐるりと一回転する、珍しい政略結婚が行われました。この婚姻は、三国が互いに勢力を拮抗させ、さらにちょうど同世代の嫡子と娘がいるという条件が整っていたため可能だったものでした。 .実際はなかったという説もあるそうですが、この三国間婚姻は、今川義元・武田信玄・北条氏康の3人が駿河の善徳寺で直接対面したという1554年『善徳寺の会談』で決められたといわれております。 .今川義元46才、武田信玄44才、北条氏康50才、同世代、壮年の戦国大名でした。 .親が同世代なら子も同世代、それぞれの嫡子氏真・義信・氏政は、奇しくも同い年でした。それぞれに嫁いだ姫君たちも、18〜12才ほどの結婚適齢期だったと思われます。 .今川義元の姫と武田義信の婚姻は先に1552年に行われ、2年後の1554年、7月に北条氏康の姫が今川氏真に嫁し、12月に武田信玄の娘が北条氏政に嫁ぎました。 .しかし、今川義元の死後、武田では信玄と嫡子義信が不和となり、1567年義信は幽閉先で自害し、その妻(今川義元の娘)は駿河に送りかえされたと伝えられます。 .その翌年、寿桂尼が没した後のことですが、12月に武田信玄は駿河に侵攻。駿府城は一夜にして落ち、今川氏真らは城を落ちて掛川城に寄り、のちに北条氏を頼りました。 .徳川幕府が成立した後、今川氏は高家として遇され名跡をつなぎましたが、戦国大名としての今川氏の終わりでした。 .今川氏真の妻の父であり、かつ氏真の叔母を妻としている北条氏康は、この武田の侵攻を怒り、嫡子・北条氏政の妻となっていた武田信玄の娘(黄梅院)は甲斐に送り返され、三国同盟はついに完全に破綻しました。 .なお、のちに北条・武田の和議成立後、北条氏康の娘が武田勝頼の後妻となり、武田の滅亡に殉じています。 |