寿桂尼  【じゅけいに】

従一位権大納言・中御門宣胤の娘。今川氏親の正室。氏輝・義元らの母。
本名は不詳。氏親の没後剃髪して瑞光院寿桂尼となり、大方殿と称されました。
氏親の没後、14歳で家督を継いだ息子・氏輝を補佐し、寿桂尼が代わって領国支配の文書などを発給しました。
戦国時代、陰ながら夫・息子を支えた女性は多かったでしょうが、自らの名目で文書を出し、領国を支配したのは寿桂尼だけで、一時実質的な戦国大名だったことを示しています。
これをもって、寿桂尼は女戦国大名と呼ばれます。

氏親と婚礼したのがおよそ1505年といわれるので、生まれは1490年頃。応仁の乱の余波の覚めやらぬ頃でした。
生家の中御門家は「名家」。極官は権大納言。上流である「摂家」や「清華家」とは違い、中流公家というところの家柄です。
父・中御門宣胤(1442〜1525)は、故実家として知られており、衰退した朝儀の復興を目指して故実・典礼を研究したと伝わり、また和歌・連歌にも長じたといいます。
極官は家門の格式どおり権大納言で終りましたが、従一位を賜っていることから、官吏としてもなかなかに重んじられた身だったと思われます。
母親は正室腹だとすると、権大納言・甘露寺親長の娘。こちらも中流公家の出身。
中世あたりから、就ける官職の低い中流公家は、何かしらの家業を持つようになり、学識をもって家門を支えていました。宮中の財政や儀礼の差配などの実務に携わり、また女子は宮中や足利将軍家の女官となることもあり、実務能力に長けた者が多く出た系統です。
中流公家の父母を持つ寿桂尼は、少女時代から和歌などの諸芸はもとより、女官や公家の夫人となるべく奥の取り仕切り方、家を立ち行かせる裁量を学んだでしょうし、家業である故実・典礼もやや学んだかもしれません。
とはいえ、応仁の乱によって都は焼かれ、世情は物騒になっていた時代のこと、のんびり諸芸に打ち込む貴族生活の気分は味わえなかったでしょう。
応仁の乱はただでさえ貧窮に喘いでいた皇室財政を破綻させており、ましてや中流公家となると、京の町衆のほうが豊かに思えるような清貧の生活だったと思われます。

寿桂尼の兄弟には、中御門家を継いだ中御門宣秀、山科言綱の室らがいます。宣秀は父と同じく故実家となりました。また同じ中流公家の山科家に嫁いだ女性は、仕女の産んだ言継の養母となりました。山科言継はその日記『言継卿記』で有名です。
寿桂尼の縁戚は父・宣胤をはじめとして、文才豊かな実務官の公家が打ち揃い、のちに駿河に下向する公家衆にもその特徴が見られました。

さほど目立つわけでもない中流公家の彼女に、どのようにして駿河・遠江の戦国大名となっていた今川氏親との縁談が持ち上がったのかは分かりません。
寿桂尼が結婚したのは、永正二年(1505)から同五年(1508)の間といわれています。
すでに氏親(1471?〜1526)は30才を過ぎており、寿桂尼が初婚の15・16才だとすると倍ほど年が違いました。
どこから駿河守護今川の当主との縁談が来たのか想像するしかないですが、今川氏親の姉が正親町三条家に嫁いでいたので、その辺りからの縁故でしょうか。
あとは想像を膨らませるしかありませんが、中御門家は上流の公家ではなかったのですが、宮廷のそば近くに仕える実務の家柄でしたし、宣胤は文化人の聞え高い公卿。その姫君も国主夫人として器量が見込まれたのかもしれません。

今川氏の援助を受け、体裁を整えて都より下っただろう寿桂尼。華々しい行列に若い姫の心も浮き立ったでしょうが、遠国に輿入れすれば、二度と京に戻れないことは重々承知していたでしょう。事実、寿桂尼は再びと京の地を踏むことなく、父母に会うこともありませんでした。
父の中御門宣胤は、寿桂尼の輿入れに際し、「歸(とつぐ)」の一字を印に彫り、手渡しました。
遠国に嫁ぎ行き、二度と会えぬやもしれぬ娘に、「歸」の印を渡す父の思いは、どのようなものだったのでしょうか。
その印は、のちに寿桂尼の印章として、寿桂尼の権威を示すこととなります。

寿桂尼の夫となった今川氏親は、駿河・遠江の守護大名・今川義忠の嫡子、母は伊勢盛定女、北川殿と呼ばれる女性でした。
名のある今川氏の嫡子として順調に成長したかというと、これがそうでもなく、氏親は幼年時代から荒波にもまれる事になります。
発端は、父・義忠が文明八年(1476)、遠江を攻略して退却する道筋、流れ矢に当たって重傷を負い、そのまま没したことにありました。
当主が討死したというだけでも混乱するところに、当時、のちの氏親こと、嫡子・竜王丸はわずかに6才(または4才)。この状況に、今川家臣は内紛を起こしました。今川記に、「爰に今川一門、瀬名、関口、新野、入野、なこや、かの家の老臣三浦、両朝比奈、庵原、由比の人々二つに分て、不快に成て已に合戦に及ふ。是主人幼少の間、私の威を高して争ひける故也」と記されています。竜王丸は母・北川殿に抱かれ、駿府を離れて小川郷の法栄の館に住まいました。
つまりは、今川氏存亡の危機になってしまった訳です。
しかし、ここで突然登場するのが、伊勢新九郎盛時こと、のちの北条早雲。彼は北川殿の兄という触れ込みで現れましたが、実際のところは分かったものではないそうで(まじっすか(^^;))。まあとりあえず、伊勢新九郎は北川殿とその子竜王丸を支持し、分裂していた今川家臣らを周旋し、重臣たちに竜王丸を家督として認めさせることに成功しました。
ですが、幼い竜王丸を駿府館に主として入れるまではいかず、義忠の従兄弟・小鹿範満が竜王丸の代行人として駿府に住み、支配を行うことで決着しました。
やがて、氏親が17才になった年、依然地位を譲らず、駿府館に居座り続けた小鹿範満を伊勢新九郎の助力を得て討ち、氏親は晴れて名実ともに今川の当主となりました。これが1587年頃のことです。
寿桂尼との結婚は、これから18〜21年後となります。政略面の事情で、なかなか正室を定められなかったのか。正室を迎えるまで随分かかりました。

戦国大名の正室の出自は、主に同盟関係のある他の領主の娘、有力な一門や家臣の娘、主筋の領主の娘などでした。
今川氏親の場合、敬うほど勢力を持つ主筋はいませんし、周辺国を見渡しても、対等に同盟を結べそうな武田氏はまだ敵対していましたし、伊豆の北条はまだ新興勢力でした。
遠江・三河方面は、小豪族・大名が多く勢力が分散していて、どれか一つを取り上げて今川の正室に迎えるのも戦略に合いません。
今川の領国がまだ安定していなかったことを思えば、有力な分家・家老筋から姫を娶るのも良かったでしょう。実際、隣の甲斐で国内の統一に努めた武田信虎の正夫人は、重臣でもある大井氏の娘でした。
ですが、氏親幼少の頃、重臣である朝比奈・三浦らや、一門である瀬名・関口らは分裂して抗争し、そのおかげで駿府を去らなければならなかったのですし、以後十数年にわたり駿府館を乗っ取った小鹿範満は父の従兄弟でした。
氏親、及び母の北川殿としては、娘を正室として娶って誼を深め国内を安定させ、代わりに彼らの発言権を強くするという可能性には、乗り気にはなれなかったのではないでしょうか。
寿桂尼が氏親に嫁いだ前後、氏親の姉も公家の正親町三条実望と結婚しました。
当主の正室に公家の姫君を据えて、当主の姉を公家に嫁がした訳で、何かしらの戦略が感じられます。
先代・義忠の突然の死により一時は揺らいだ、今川宗家の正当性を裏付け、一門・家臣・国人らより格上にあることを示すために、あえて京より姫君を、寿桂尼を迎えたのではないかと思います。

さて、嫁いだ寿桂尼に話を戻します。
寿桂尼が嫁いだ頃には、既に氏親の統治は安定しており、若き正夫人として寿桂尼は第一歩を、戸惑うこと少なく歩み始めれたでしょう。
その後も氏親はさらに領国を拡げ、支配権を固めていました。本領の駿河の支配は既に固められており、一時は揺らいだ遠江へのさらなる領国拡大がなされました。
着実に戦国大名として版図を広げる今川氏の歩みとともに、寿桂尼は、氏輝(幼名竜王丸)・彦五郎・義元(幼名方菊丸)・氏豊ら生みました。
4人の男子の母となり、名実ともに奥の女主人として、采配を振るう立場となりました。
顔も知らずに婚姻した氏親と寿桂尼ですが、それは当時としては当然のこと。ともに日々を暮らし、子を育てていく過程で次第に夫婦となっていくように、互いを知らずに結婚する当時は、結婚の後に情愛が湧くように努力することが必要でした。
氏親と寿桂尼とは親子ほどの年の差でしたが、氏親は文芸に関心が深かったようで、連歌に長じた父を持つ寿桂尼と共通の趣味を持つことができたと思われます。
氏親が年下の妻の政治的才能を認め、教えていったのだとすると、それもこの頃でしょう。氏親が長生きであれば寿桂尼が表舞台に立つこともなかったので、それは嫡子・氏輝の教育に役立てるための国主の母への教育に過ぎなかったのかもしれませんが、寿桂尼に今川氏の女主人として自覚を持たせることになったでしょう。
まだ存命の氏親の母・北川殿に訓えを受け、領主の妻・領主の母としての心構えを聞くこともあったと考えられます。
輿入れした永正二年(1505)頃から氏親の死の大永六年(1526)まで、およそ二十年の月日。寿桂尼は十代の姫君から三十代の奥方となりました。
武家のことは何も知らずに京から嫁いだ少女が、夫や義母から習い、あるいは子を育てること通して学び、少しづつ成長して、押しも押されぬ今川の女主人となるのに、二十年は充分な歳月でした。

大永六年(1526)、夫・氏親が中風(脳出血後に起こる体の麻痺)で死の床に伏しました。
氏親は病床にあって、分国法(戦国大名の領地支配のための法)として名高い「今川かな目録」全三三か条を制定しました。死の二ヶ月前のことです。
前々から準備のあったことでしょうが「今川かな目録」は、死にゆく氏親が若干14才だった嫡子・氏輝を案じ、領国支配の法を託したものともいえます。また、のち氏親亡き後、寿桂尼が政務を代行したことを考えると、寿桂尼もこの法の制定に関わったかもしれません。
遺産ともいえる法を受け取り、共に育てた嫡子の幼さに不安を見せる病床の夫・氏親を前に、寿桂尼はどんな思いだったでしょう。後の行跡を考えれば、この時、彼女は今川氏の女主人として表舞台にでる決意をしたのではないでしょうか。
この年、今川氏親は57才程で没しました。
未亡人となった寿桂尼は出家・剃髪し、俗名を捨てて、法号を「瑞光院」、法諱を「寿桂」と名乗りました。
史上に残る彼女の名「寿桂尼」は、この後の彼女の活躍によるものです。

後を継ぎ、主となった氏輝は若干14才。幼児の頃に家督を継いだ氏親に比べれば、元服も結婚もできる年齢ですし、まだ良い方だと言えますが、戦国の世に幼主はとても危ういものでした。
今川の版図は駿河・遠江・三河の一部に及んでいましたが、全てが今川の直接支配を受けている訳ではなく、その地の国人・領主が今川の勢力を恐れ、勢力になびき、支配下に収まっているといったところでした。
血筋正しき幼主に民心が従おうとも、土地に根差した国人は自分の領地第一、主家は二の次です。直臣はさすがに主家を優先してくれるかもしれませんが、それだとて主家が傾いては元も子もなし。主家の当主次第で運命が左右されるだけに、なるべく強い主を求め、家督争いの内輪もめをする戦国大名は多くいました。
今川氏が隙を見せれば、いつでも他勢力につきそうな領主たち。分裂しそうな家臣たち。
こうした中で、剃髪し尼となった寿桂尼が、氏親を補佐し領国経営に当たることになったのです。

寿桂尼の印判状は、十数点が確認されており、氏輝が家督を継いだ大永六年(1526)から、氏輝が20才となる頃まで、領国の差配を行ったようです。
文書は花押の代わりに個人を示す朱印を用いる朱印状で、寿桂尼は父より渡された「歸(とつぐ)」の印を用いました。現存する、冒頭に「歸(とつぐ)」の朱印の押された寿桂尼の文書の写真をみると、その字に込めた寿桂尼の思いが感じられるようです。
おそらく評定や謁見などにも、氏輝の隣に座して参加したでしょう。
ときに30代であったと思われる彼女、居並ぶ一門・老臣を前にして、祖父や叔父などの支えもなく号令するのは、それだけで随分と気苦労の絶えないことだったと思います。
寿桂尼の縁戚は公卿であるため、今川一門の嫡母として権威とはなりますが、領主の後見としてみると薄く、また亡き氏親には男兄弟が少なく、寿桂尼が領国差配の矢面に立たなければならなかったのです。氏親の近臣だった者たちや、苦労人の姑・北川殿の手助けがあっただろうとはいえ、奥より出でての采配には悩みも多かったでしょう。
あるいは、母としての責任感と、30代の女盛りの気力で、案外にしたたかな領主だったのかもしれません。
寿桂尼が実際にどの程度領国支配に携わったのか、推察するしかありませんが、よしんば形だけの物だったとしても、寿桂尼はその役割をよく果たしました。
女性領主のゆえか領地拡大は目立ちませんが、当主若年の中でも他国の侵略を許すことなく、また氏親の代からの駿府の発展の道筋も途切れることなく、成人した氏輝に領国は手渡されました。

氏輝が20才となったのは1532年。6年後のこと。氏輝が成人しても、寿桂尼はまだまだ若い壮年期ですから、引退にはいささか物足りなかったかもしれません。しかし我が子の領主として一人立ちする姿は、やはり嬉しさをもたらすものだったでしょう。
氏輝は父・氏親の領国経営路線を継承し、駿河から三河への版図の維持に務めました。

これで無事、寿桂尼も領主の母として穏やかな暮らしができると思いきや、氏輝の治世は長くありませんでした。そしてその死に際も、謎に包まれたものでした。
1536年4月、氏輝と、同母弟・彦五郎が同日に死んだと伝えられています。氏輝は24才。彦五郎は20才。感染病だったのかも知れませんが、あまりに若い死です。一日に所生の二人の男子を失い、しかし、それが毒殺を思わせる不審な死であったために、寿桂尼は動かざるを得ませんでした。
氏輝はまだ正室を迎えておらず、子女もいませんでした。
そのため、次の家督は弟達から選ばれることになるのですが、氏輝と同じ正室寿桂尼の子で次男の彦五郎は、既に書いたとおり、同日死去しました。
候補となったのは、ともに幼いころ出家していた、三男で側室福島氏の生んだ玄広恵探、五男で正室寿桂尼の生んだ梅岳承芳の二人でした。年齢順でいえば恵探、母の出自でいえば承芳。寿桂尼は当然承芳を支持しました。
側室とはいえ、恵探の母の家・福島氏は有力な重臣の一門であり、駿河国内の基盤を考えれば、京より輿入れした寿桂尼よりも強いものがありました。福島氏は自らの権限の伸長のためにも、恵探を推します。
どちらが家督につくかは、その他の一門・重臣たちがどちらに付くかにかかっていました。
果たして、主だった重臣のほとんどは寿桂尼所生の承芳を支持しました。
承芳の後見をしていた善徳寺の僧にして老臣・雪斎の推しがあったことなどもありますが、先代氏輝の治世の初めに執政した寿桂尼への支持が判断に加わったものと思われます。

ですが、承服しなかった福島氏は恵探を擁して乱を起こしました。福島氏が花倉城に拠ったため、「花倉の乱」と称される家督争いです。
しかし、福島氏は挙兵に際しても他の今川家臣たちの支持を受けられず、また隣国甲斐の大名武田信虎もこの乱にて承芳を支持する立場を表していました。
いくら有力な一門とはいえ、兵の数も一国と対すると限りがあり、孤立した花倉城は落ちました。
家督を継いだ梅岳承芳は還俗、元服し、義元と名乗りました。

義元は翌年に武田信虎の娘を正室に迎え、長年懸案の武田氏との縁戚関係を結びました。1年後には男子、のちの氏真も誕生し、今川家は嫡男を得ました。
既に成長していた義元は学識も高く、師であった善徳寺の雪斎(太原崇孚)を老臣とし、治世に乗り出しました。
前半生が仏門にあったため、自身の武芸は確かに劣るところがあったようですが、民政・軍政には見るべきものがありました。
駿府の城下は整備されて商人が賑わい、京より多くの公卿が訪れ、長期間駿府に留まり続けた者もいました。
1554年には、北の武田、東の北条と三国同盟を結び、領国は西に向かって拡大されました。

義元のもと、最盛期を迎えた今川氏の栄華の中心にあること20年程。この頃の寿桂尼は、穏やかな生活を送っていたのではないでしょうか。
事態が暗転するのは永禄三年(1560)5月。寿桂尼60代の頃でした。
西上の途にあった義元が、桶狭間で織田信長に討たれたのです。
西に版図を拡げる今川氏の当然の帰結として、織田氏との決戦はつねに眼中にあったことでしょう。ですが、歴戦の相手・信秀が身罷って年若い信長が相手であり、また今川方は大軍勢でした。
有利な情勢にかえって油断し、敗因となった、というのがよくある分析です。

何はともあれ、当主義元の討死は今川家の趨勢に大きく作用しました。
直接支配の直臣武将団を築いた織田信長などとは違い、今川はまだ古い封建体制を引きずっていたため、駿河より遠方に行くほど今川氏への帰属意識は低く、ただ有利なために臣下に付いている程度の豪族・国人が多くありました。彼らは今川家大事よりも、自らの領地と家臣が大事です。
さっそくに離れたのが三河岡崎の松平氏。もともと今川氏の派遣した代官の支配下にあることを恨みにもっており、今川氏の権力の緩みは棚からぼた餅でした。
その他、すぐに翻りはしなくとも、あちらこちらで近隣の領主と連携していきました。

また、今川氏の衰退の様子は、駿河の北と東を保証していた武田氏・北条氏との同盟にも影響しました。
1565年、武田信玄は織田信長と盟約。その証として、信玄の四男・勝頼の正室に織田信長の養女(実は姪)が嫁ぎました。逆に義元の娘が嫁いでいた長男・義信は、その頃には廃嫡されており、2年後の1567年幽閉されていた東光寺で自害しました。
義信は、寿桂尼が周旋したといわれる信玄正室・三条公頼女の男子であり、元服の際には義元につながる「義」をとり、また義元の娘を正室に迎えていました。信玄と義信の決裂の原因はいまだよく分かっていませんが、いささか今川氏びいきだったことも理由の一つだったと考えられます。
かつて駿河に嫁いでいた信玄の姉(定恵院殿)は、義信の婚礼の前年の1550年すでに没しており、今川氏と武田氏を結ぶ糸は切れてしまいました。

かつて2度の当主交代の時に活躍した寿桂尼もすでに老齢となり、もはや気力が及ばなかったのか。もしくは孫・氏真がただ凡才で気力がなえたのか。
今川氏斜陽の中で、1568年3月14日、寿桂尼は死去しました。
遺骸は駿府館の東北にあたる竜雲寺に葬られ、死しても駿府の鬼門を守る心積もりだったと思われます。

しかし、寿桂尼の死から1年も経たない1568年の12月、武田信玄が駿河に侵攻。呼応して徳川家康が遠江に侵攻。今川氏真は大きな抵抗もできず、一門は駿府を追われました。
氏真は一時掛川城により、ここでは激しい攻防戦が行われましたが、講和に応じ北条氏を頼って相模に向かい、のちに徳川幕府成立の折に武家の名門からなる「高家」の一つに列せられました。
駿府を守ろうとする願いは叶わなかったのもの、国を失えど名跡をつないだ子孫に、寿桂尼は満足だったでしょうか。

京よりいらした姫君は、駿河の地で女領主・寿桂尼となり、60年近くの足跡を残して、今も駿河に眠っています。

  end
             
寿桂尼トップへ

HomePageトップへ