葛野王 伝記

葛野王

王子は、 淡海帝の孫、 大友太子の長子なり。 母は浄御原帝の長女十市内親王。 器範宏漠、 風鑒秀遠。 材は棟幹に構(かな)い、 地は帝戚を兼ぬ。 少(わか)くして学を好み、 博く経史に渉らす。 頗る文を屬(つづ)ることを愛(この)み、 兼ねて書晝を能くす。 浄御原帝の嫡孫にして、 浄太肆を授けらえ、 治部卿に拝さる。
高市皇子薨りて後に、 皇太后王公卿士を禁中に引きて、 日嗣を立てむことを謀らす。 時に群臣各私好を挟みて、 衆議紛紜なり。 王子進みて奏して曰はく、「我が国家の法と為る、 神代より以来、 子孫相承けて、 天位を襲(つ)げり。 もし兄弟相及ぼさば則(すなわ)ち乱此より興らむ。 仰ぎて天心を論らふに、 誰か能く敢えて測らむ。 しかすがに人事を以ちて推さば、 聖嗣自然(おのづから)に定まれり。 此の外に誰か敢えて間然せむや」といふ。 弓削皇子座に在り、 言ふこと有らまく欲りす。 王子叱び、 すなわち止みぬ。 皇太后その一言の国を定めしことを嘉みしたまふ。 特閲して正四位を授け、 式部卿に拝したまふ。 時に年三十七。

..《訳》
王子は、淡海帝(天智天皇)の孫、大友太子の長子である。母は浄御原帝(天武天皇)の長女の十市内親王。器量が広くしかっりしていて、立ち居振舞い、鑑識が優れていた。棟木のように優れた才能を持ち、家柄は天子の母方の親戚を兼ねた。
若くして学を好み、広く経書や史書に詳しかった。文章を作ることを大層愛好して、加えて書画に巧みであった。
浄御原帝の嫡孫であることから、浄太肆の位を授けられ、治部卿に任命された。

高市皇子が薨去した後、皇太后(持統天皇)は皇族諸侯百官を宮中に召して、皇太子を立てることについて議論させた。
時に群臣たちは各々、自分の好むところを言って、議論は紛糾した。
この時王子が前に進み、奏上した。「我が国家の決まり事では、神代より現在まで、子孫が相続して皇位を継ぐことになっています。 もし兄弟が相続するならば、争乱はここから起こるでしょう。天を仰いで(誰が最も皇太子の資質があるかという)天意を論じても、その天意を推測できる者がいるでしょうか。 しかし、人事(血筋・長幼)から考えれば、天子の世継ぎは自然に(直系の子孫に)決まっています。これ以上余計なことを言うべきではないでしょう。」
弓削皇子がその場にいて、何か一言いおうとした。王子が弓削皇子を叱りつけ、何も言えなかった。
皇太后(持統天皇)は、その一言が国家の基本を定めたことを誉められた。特別に抜擢して正四位の位を授け、式部卿に任じられた。時に三十七才。

『懐風藻』において5番目に登場。この伝記の後に漢詩二首。
十市皇女が大友皇子の妃であったことは、この伝記によって知られます。伝記中の「浄御原帝の嫡孫」は天武天皇と天智天皇を誤ったものかと思われますが、天武天皇の孫でもあります。

後段の「高市皇子薨りて後に」よりの記事は、持統天皇朝において嫡孫・珂瑠(文武天皇)の立太子を決定した経緯として有名なエピソード。皇位の直系相続の正当性を論じています。
この記事の後に「時に年三十七」とありますが、他の伝記が最後に享年を記載していること、父大友皇子の年齢などからして、没した時の年齢であると推察されています。

『続日本紀』によれば、慶雲二年(705)十二月没。時に正四位上。加えて式部卿であったことは、延暦四年七月の淡海三船の薨伝に見えます。
『懐風藻』の撰者として有力な淡海三船の祖父に当たります。

                


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