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.王子は、 淡海帝の孫、 大友太子の長子なり。 母は浄御原帝の長女十市内親王。 器範宏漠、 風鑒秀遠。 材は棟幹に構(かな)い、 地は帝戚を兼ぬ。
少(わか)くして学を好み、 博く経史に渉らす。 頗る文を屬(つづ)ることを愛(この)み、 兼ねて書晝を能くす。
浄御原帝の嫡孫にして、 浄太肆を授けらえ、 治部卿に拝さる。
..《訳》 . 高市皇子が薨去した後、皇太后(持統天皇)は皇族諸侯百官を宮中に召して、皇太子を立てることについて議論させた。
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.『懐風藻』において5番目に登場。この伝記の後に漢詩二首。
.十市皇女が大友皇子の妃であったことは、この伝記によって知られます。伝記中の「浄御原帝の嫡孫」は天武天皇と天智天皇を誤ったものかと思われますが、天武天皇の孫でもあります。 .後段の「高市皇子薨りて後に」よりの記事は、持統天皇朝において嫡孫・珂瑠(文武天皇)の立太子を決定した経緯として有名なエピソード。皇位の直系相続の正当性を論じています。 .この記事の後に「時に年三十七」とありますが、他の伝記が最後に享年を記載していること、父大友皇子の年齢などからして、没した時の年齢であると推察されています。
.『続日本紀』によれば、慶雲二年(705)十二月没。時に正四位上。加えて式部卿であったことは、延暦四年七月の淡海三船の薨伝に見えます。
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