河島皇子 伝記

河島皇子

皇子は、 淡海帝の第二子なり。 志懐温裕、 局量弘雅。 始め大津皇子と莫逆の契を為しつ。 津の逆を謀るに及びて、 島則(すなわ)ち変を告ぐ。 朝廷その忠正を嘉(よ)みすれど、 朋友その才情を薄みす。 議する者未だ厚薄を詳(つび)らかにせず。 しかすがに余以為(おも)へらく、 私好を忘れて公に奉ずることは、 忠臣の雅事、 君親に背きて交を厚くすることは、 悖徳の流(たぐい)ぞと。 但し未だ争友のuと盡くさずして、 その塗炭に陥るることは、 余も亦疑ふ。 位浄大参に終ふ。 時に年三十五。

..《訳》
皇子は、淡海帝(天智天皇)の第二子である。心ばせが穏やかでゆったりとしていて、器量が広く正しかった。
はじめ、大津皇子と親友の契りを交わした。
津(大津皇子)が謀反の計画をするに及んで、島(河島皇子)はすぐにその異変を密告した。 朝廷はその忠誠を賞したが、朋友達はその情の薄いことを非難した。
論議する者は、未だ河島皇子の行動の是非の判断に迷う。
しかし、私(撰者)の思うに、私情を忘れて公に奉仕することは、忠臣としてなすべき正しい事である。 君主や親に背いて友との交りを厚くすることは、徳に反したたぐいの行為である。 ただし、友として忠告して謀反を止めさせる手段を尽くさないで、大津皇子を(死罪という)苦しみに追い込んだことは、他の人と同様、私も疑わしく思う。
浄大参位にて没した。時に三十五才。

河島皇子は2番目に登場。この伝記の後に漢詩一首。
大津皇子とはじめ親友であったが、その謀反の際に密告したことが記されています。
この密告の是非については、『懐風藻』成立の頃(『懐風藻』は孝謙天皇の天平勝宝三年[751]に成立)でも、議論になっていたようで、伝記の大部分はこの密告と、それに対する撰者の考えで占められています。
ちなみにこの後に載る詩一首は、変わらぬ友情を願う内容のものです。

                


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