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.十市皇女。672年に起こった皇位継承を巡る争乱「壬申の乱」において、重要な位置を占めるのが彼女です。
.壬申の乱で対立したのは、前年に崩御した天智天皇の同母弟大海人皇子(のちの天武天皇)と息子の大友皇子。十市皇女は、大海人皇子の娘であり、大友皇子の妻。壬申の乱の年には既に息子・葛野王を生んでいました。
.争乱に巻き込まれ、父と夫とに心を引き裂かれる若き皇女。
.嫌でも取りあげたくなるようなキーパーソン、なのです。
.しかし、正史である『日本書紀』には、彼女が大友皇子の妃であったことは、全く書かれていません。
.天武天皇項を上巻と下巻に分け、壬申の乱に多くの記述を費やす書紀ですが、当時大友皇子の妻であり、おそらく近江の朝廷にいたであろうの十市皇女については、何一つ触れられていません。
.天武天皇の妃や子女を列挙する箇所にも、十市皇女の薨去の記述の所にも、大友皇子の妃となったことは、一言も書かれていません。全く無視している状態なのです。
.十市皇女が大友皇子の妃であったことが分かるのは、近い時期に書かれた書物では、漢詩集『懐風藻』の葛野王の伝、「大友太子の長子なり。母は浄御原帝の長女十市内親王」との記述からです。
.こういった例は珍しくはなく、例えば多紀皇女は『万葉集』の春日王の詞書の「志貴皇子の子、母は多紀皇女といふそ」から施基皇子の妻であった事が分かり、田形皇女も同じく『万葉集』の笠縫女王の詞書に「六人部王の女なり。母を田形皇女と曰ふ」から六人部王の妻であったことが推察されています。
.『日本書紀』や『続日本紀』は、天皇の皇子女の名前を列記するものの、天皇の直系以外の婚姻関係や血族関係には筆を割かないところがあり、あまたの皇女たちが誰に嫁いだのか、子をなしたのかは、あまり記載しません。天皇に嫁いで妃となれば別ですが、天皇以外の皇族に嫁いだかもしれない皇女たちの結婚は、さほど重要に感じなかったのでしょうか。
.多紀皇女も田形皇女も、『続日本紀』に薨去の記事はありますが、誰の妻にして誰の母であったかは、まるっきり書いてありません。
.正史に皇女の婚姻関係のような私事を書くべきではない、との考えかも知れません。
.しかし、他の皇女たちの婚姻と比較して、十市皇女と大友皇子の婚姻は、実に政略的に重要な意味を持って行なわれたものだったと考えられています。
.十市皇女は、大海人皇子と、万葉歌人として著名な額田王との間の娘。日本書紀の「天皇、初め鏡王の女額田姫王を娶して、十市皇女を生しませり」という記述から、大海人皇子はじめての子供であったと考えられます。
.大海人皇子の“長女”十市皇女が、天智天皇“長子”である大友皇子へ嫁した訳です。
.二人の間の子・葛野王は、669年頃の誕生です。この当時、天智天皇が天皇位にあり、大海人皇子が皇太弟となっていました。国家のNo1の息子とNo2の娘の夫婦。あまりに整った婚姻であり、政略の色が見えます。おそらく、采女の母を持ち、後継者となるには血筋的に劣っていた大友皇子の勢力を補強し、かつ大海人皇子側を牽制するという、天智天皇の考えが入ってのことでしょう。
.その頃、十市皇女の母である額田王も天智天皇の宮廷にいました。
.額田王が、天智天皇の宮廷に居ながら、大海人皇子と交わした贈答歌「茜さす 紫野に行き 標野行き・・・」を詠ったのは、668年5月の蒲生野での狩猟に際してです。母・額田王が父・天智天皇に、娘・十市が息子・大友皇子に。まこと複雑な関係という他ありません。
.文藻豊かな血族に囲まれた十市皇女ですが、つねに緊張があったことでしょう。
.671年の正月、大友皇子は太政大臣を拝命。同年10月、天智天皇の病が重くなる中、皇太弟大海人皇子は日嗣の位を辞し、出家・遁世するとして吉野に向かいました。12月、天智天皇崩御。
.大海人皇子が吉野に去った後、近江朝廷では、大友皇子が事実上の最高権力者でした。
.権力者の妻として、その長子葛野王の母として、十市皇女は近江朝廷における女主人となりました。しかし、彼女が事蹟を残す間もなく、672年5月争乱が起こりました。7月までの2ヶ月に渡る壬申の乱です。
.平安時代以降に書かれた『扶桑略記』『宇治拾遺物語』では、この乱勃発に先立って、十市皇女は父の陣営に近江方の情報を漏らしていたといいます。
.日本書紀において高市・大津皇子らが近江を脱出し、乱に参加したという事実と、『懐風藻』から分かる大友皇子の妻であったことを鑑みて、宮廷の采配を握っていただろう十市皇女が大海人皇子側の血族(つまりは自分の異母兄弟たち)の流出を手助けし、また情報も流したと思われたのでしょう。
.しかし、実際に十市皇女がそうした諜報活動をし、貢献していたならば、書紀の乱の記事にも何らか書かれるはずです。
.実際は、日本書紀が何も記さないように、十市皇女は、壬申の乱に際して、何ら積極的な行動をしなかったと見るほうが自然に思えます。
.父に対して手紙を書くくらいはしたかもしれません。とはいえ、壬申の乱の展開は早く、迫る大海人皇子の軍に「宮内震動」する近江の都。もはや彼女一人の存在で繋ぎ止められるものではなく、まだ20才〜25才ぐらいであった十市皇女にその荷は重いものだったでしょう。
.7月、大海人皇子軍は近江に入り、十市皇女は近江の都にて、葛野王らとともに保護されたと考えられます。
.大友皇子は都からさらに後退し、7月26日、最期は物部麻呂と数人の舎人が付き従う中で自決しました。『懐風藻』によれば享年25才。
.同日、将軍たちは大友皇子の頭を捧げ、大海人皇子の不破の陣営に献じました。当然ともいえる敗軍の将への仕打ちであったとしても、妻の十市皇女にはあまりに無残なことに感じられたでしょう。
.壬申の乱に際して積極的な行動をしなかった、あるいは出来なかった、十市皇女。
.日本書紀に何の記載もない事から、父方に協力する訳でもなく、かといって夫の死に対して激しい抗議をするでもなかったのだろう、と考えられます。
.しかし、それは、彼女が苦しまなかったということではなく、むしろ苦しんだゆえの結果とも取れます。
.また、日本書紀の編者たちは、彼女が特に大きな貢献や抗議をしなかったのを理由に、大友皇子の妻となっていた事実を消極的に書かなかったのではないでしょうか。
.現政権を樹立する乱の影で、板挟みにされた皇女。
.それは、壬申の乱の天武天皇らの輝かしい活躍を、無言ながらも圧迫する事実であると、意図的に書かれなかったのかもしれません。
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