高市皇子の想い人


十市皇女薨りましし時、高市皇子尊の御作歌三首
.. 三諸の神の神杉夢にだに見むとすれども寝ねぬ夜ぞ多き
.. 三輪山の山辺真麻木綿短木綿かくのみ故に長しと思いき
.. 山振の立ち儀ひたる山清水水酌みに行かめど道の知らなく

<意訳>
・・・三輪の山の神杉を見るように、夢にだけでもあなたを見ようとするのに、あなたを失った悲しみに眠れない夜が多い。
・・・三輪山の山の辺にある真麻の木綿が短いように、あなたの生命も短かったのに、私は長いものだと思っていました。
・・・黄色い山吹の花が彩る山の清水(=黄泉を指す)を汲みに行こう、黄泉の国にあなたを訪ねて行こうと思うが、道が分からない。

万葉集に載る高市皇子の歌。その死を惜しみ、なおも恋慕うような追慕の歌から、高市皇子と十市皇女は恋愛関係にあったとされています。
高市皇子は、天武天皇の長子。十市皇女の異母兄弟。おそらくいくらか年下の弟であったと推定されます。
678年、十市皇女の薨去の時、十市皇女は約26〜31才、高市皇子はおよそ25才。大友皇子の死より5年と9ヶ月後のことでした。

薨去の時の記載に「宮中に薨せぬ」とあることから、夫・大友皇子が敗死した後、父とともに葛野王を連れ、天武天皇の宮都・飛鳥浄御原宮に移ったと考えられます。
寡婦となった娘が父の元に戻った、当時の慣習にあったことでしょうが、旧近江朝廷に対して一種の人質の意味もあったのかもしれません。

3年後、675年2月13日、十市皇女は阿閇皇女とともに、伊勢神宮に参宮しました。
前年、伊勢には大伯皇女が群行しており、そこで3人の皇女が対面したことになります。
阿閇皇女は天智天皇の皇女で、やがて草壁皇子の妃となり、後に元明天皇となる女性。当時15才。古代の女性が早婚であったことを考えれば、既に14才になる草壁皇子と結婚していたかもしれません。未婚であったとしても、草壁皇子の元服を待って妃となることが内定していたことも考えられます。。
現天皇の娘で近江朝廷での最高権力者・大友皇子の妃であった十市皇女と、天智天皇の娘で現天皇と皇后との嫡男に嫁すことになる阿閇皇女との、二人の伊勢神宮派遣。壬申の乱より3年目という時期から考えても、この人選は、旧近江勢力の現勢力への取り込みを示すためのものだったと見ることができるのではないでしょうか。
壬申の乱に天武天皇側に立ち、功績を残した伊勢神宮への参拝という形をもって。
神仏すらも統治の手段とするのは、天武天皇の戦略でした。
天皇の使いとして、天武天皇の遣わした諸官の行列を従えていく参詣。近江宮都のかつての正妃と皇女。浄御原宮都の皇女と未来の正妃。交差する関係に、近江勢力を取り込んだことと、新勢力での旧近江勢の身分の保証を明らかにして。
伊勢までの行程は、数日はかかったでしょう。自分が現天皇の遣使として行列の中心にいることで、政略の効果が及ぶことを十市皇女はどう感じたでしょうか。

高市皇子との恋が生まれたのは、この頃だったでしょうか。
夫を亡くしたとはいえ、まだ20代だった十市皇女。まして不安定な身分と待遇。生きた人間であるが故に心は揺れ動いたでしょうし、心の支えを欲していたでしょう。

しかし、高市皇子との恋愛には障害がない訳ではありませんでした。というより、大きな障壁がありました。
異母姉弟は当時は恋愛・結婚の対称になり、血筋や相続の関係からみれば、むしろふさわしい結婚相手とされました。寡婦であること、葛野王という子供がいること、これらも当時としては別段障害にはなりません。
問題は、十市皇女が、近江政権の最高権力者・大友皇子の妻であった、ということです。
そして、高市皇子、壬申の乱当時およそ19才であった彼は、乱に参戦し、前線の司令官として活躍した人物でした。自決した大友皇子の頭を捧げ、大海人皇子のいる不破宮まで凱旋したという前線の将軍たち。その司令官が高市皇子でした。
十市皇女と高市皇子が恋に落ちたのが乱の後で、この事実を乗り越えてのことだとしたら、十市皇女は実に強い女性だったとしか言いようがありません。
とはいえ、皇女個人が乗り越えて受け入れることと、旧近江勢力の人々が受け入れることは当然違います。大友皇子の長子・葛野王に期待を寄せる者たちにとって、母十市の再婚は、まして相手が高市皇子では許し難いものがあったでしょう。

高市皇子の想いは、あるいは十市皇女にとって、やわらかな光となったかもしれません。
しかし、将来へと繋がる希望となったとは言えません。

そんな中、十市皇女に死が訪れます。
678年4月7日、寅の刻(午前4時頃)。「十市皇女、卒然(にわか)に病発りて、宮中に薨せぬ」。
この年、天武天皇は大規模な神事を計画していたらしく、倉梯の河上に斎宮を建築させていました。7日の早朝、その斎宮への御幸に出立する直前、十市皇女が薨去しました。突然死だったようです。

その死により「遂に神祇を祭りたまはず」と、結局神事を決行しなかったことから、神事の斎王に選ばれていたのでは、という説もあります。
また、宮中での突然の死であったことから、自殺説もあります。
そして、自殺説の中には、高市皇子との叶いがたい恋愛を原因の一つにあげるものもあります。

4月14日、十市皇女は大和国赤穂に埋葬されました。
その地や都からは高市皇子の詠んだ三輪山が見え、そして山吹の花の咲く季節でした。
葬送には父・天武天皇が臨御し、「発哀したまふ」(声を出して嘆き泣く)とあります。
愛娘の前触れなき死。それ以上に天武天皇には、思うところがあったのでしょうか。
しかし『日本書紀』はここでも、十市皇女が大友皇子の妃であったことは書いていません。ただ天皇自身の異例とも言える悲しみを書き留めています。

天武天皇の自ら葬送に臨御しての嘆き。高市皇子の黄泉に亡き皇女を探し求める歌。
積極的な言動や、心の動きを窺い知る歌や説話は何も残さなかった十市皇女ですが、その死はこの身近な二人に惜しむべきものであり、悔やまれるものであったようです。
それが具体的にどういったものかは、推測するしかありません。
ですが、立場ゆえにしろ、彼女が持った人間性に惹かれ、彼女を名残惜しく思ったからこそ、深い悲しみを今に伝えていると言えるでしょう。
特殊な立場と複雑な関係。そんな中に身を置きながらも、人間としての魅力を放ち続けた皇女。それゆえに、悲しみに彩られたその突然の死。
悲劇の皇女である以上に惹かれるのは、そんな所かもしれません。

                


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