.「まこと、ここを寺になさるのですか。」確認するように問い掛けてくる。
.「ええ、御仏に差し上げるのですよ。」
.正子は言った。静かな口調であったが、決意を秘めていた。
.「御仏にお仕えするには、なかなかよい場所でもございましょう。」
.口元にはうっすらと微笑みが浮かんでいる。
.都の西、大堰川と広沢の池に挟まれ、緑の山々を望む嵯峨野の地。貴族の別邸の立ち並ぶこの地の中で、かつて嵯峨院と呼ばれた古邸の、東北の一角に正子内親王はいた。
.嵯峨院・・・この邸は、この地は、父の帝が生涯愛した場所であった。
・・・東宮の頃より、狩猟の度に立ち寄る別荘だった、と幼い頃聞いた。馬で駆け抜けると、たまらなく気持ち良いのだと言われ、狩りに一緒に連れていって欲しいとせがんだこともあった・・・。
.正子内親王は、過去に思いを馳せ、かすかに笑った。
・・・さすがに狩りには連れて行ってくれなかったが、父と母、正良や弟妹たちとともに出掛けたことはあった。都とは違う空気に、心踊ったことを思い出す。廷臣も集まり、管絃や詩歌の宴がよく催されたものだった。・・・
.今この古びた邸に、その面影は残っていないけれど。
・・・父が位を退き、母とともに嵯峨院を住まいとするようになると、今度は父と母に会いにここに来た。時には夫ともに、時には三人の子供達を連れて。よく来たと迎えてくれた父の顔、隣に座す母・・・
.あれから、父も夫も亡くなった。悲号して怨んだ母も、今はもういない。双子の片割れであった正良も、恒貞に変わって皇太子となった甥・道康も早くに世を儚んだ。今の帝は道康(文徳天皇)と、やはり藤原の姫・明子との間に生まれた惟仁(清和天皇)だ。気の弱い帝は、外戚の藤原良房に頭が上がらないという。既に世は藤原のもの。
. 「後の時代に、売り払われて、どなたかの別邸に使われるくらいならば・・・」藤原の栄華の場に使われるくらいならば・・・。
.「御仏に、差し上げましょう。」
.貞観十八年(786)二月、淳和太皇太后・正子内親王の請により、嵯峨旧宮の東北部が寺に改められ、大覚寺となった。今に残る京都の名寺である。初代の住職は恒寂。かつて皇太子・恒貞親王といった、正子内親王の長男である。
.「恒寂・・・。」
.「なんですか。母上。」僧姿になって久しい息子が顔を上げた。
.「私が死んだら、この嵯峨に埋めてね。」
.恒寂は唐突な話に驚いた。しかし、母も既に59になる。そう遠い話ではないかもしれない。
.「お父様とお母様、あなたにはお祖父様とお祖母様だけど、お二人もこの地にいらっしゃるわ。」嵯峨天皇と皇后・橘嘉智子の陵も、彼らの愛した嵯峨にある。
.「葬儀はなくていい・・・墓は土を盛るだけで・・・。ただ嵯峨の山に葬って欲しいの。帝や染殿の大臣にもそうお願いしておくつもりです。」
.緑なす嵯峨の山・・・その地で眠り、そして、永遠に都を見続けよう。
.元慶三年(879)三月二十三日、太皇太后・正子内親王崩御。遺骸は遺言により、嵯峨山中に薄葬された。享年70才。
.弥生の春、山の梢は萌黄から若緑に染まり、花々が揺れていたことだろう。
.嵯峨天皇と壇林皇后嘉智子の娘、淳和天皇の皇后、仁明天皇の皇太子・恒貞親王の母。誇り高った皇女は、嵯峨の花々に見送られた。
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