〜萌黄〜
春が訪れる。高く澄んでいた空は霞を帯び、春の陽差しが、やわらかに降り注ぐ。山々は陽差しを写したように、淡い黄色に彩られる。
冬を知らない、伸びやかな若葉の芽吹き。萌黄の季節。
「は〜。」
京の都、橘氏公邸。先帝の后腹の皇女・正子内親王は、ひとり考え込んでいた。
・・・こうしてると、全然去年と変わらないのにな〜・・・
この邸は、正子と兄弟たちにとっては今まで暮らした内裏に等しいほどに縁の深い場所であった。邸の主、橘氏公は伯父であり、氏公の妻・田口真仲は正子と双子の正良の乳母だ。幼い頃より何度となく訪れ、この庭を眺めた。大きくはないが、内裏のような堅苦しさもなく、自由に遊べた。
父の帝は今年の2月に譲位したばかりだ。それに伴って正子も先帝の姫宮になった。双子の兄弟正良は立太子して、母は皇太后になった。しかし、それ以上に・・・
・・・もうすぐ入内なんだよね、私・・・
しっかし、いまいち実感ないや、と、ぼ〜っと庭を眺める。
女房たちは忙しく立ち回っているが、自分にはこれから変わっていく世界がどうにもピンとこなかった。不安に感じようにも、今まで大して苦労せず育ってきた自分には、イマイチ不幸な状況というものへの想像力が湧かない。
・・・しかも、大伴叔父さまに嫁ぐなんて・・・
ぜんっぜん、考えてなかった〜。
正子内親王は今年で14才。新帝の妃としての内裏入内が決まっていた。身分からいって正子内親王に勝る妃・女御はいず、実質の正妃である。でも、新帝・大伴は今年で38才、正子の父の異母弟であり、正子の叔父に当たった。
年齢差のある結婚、というだけなら、それほど珍しい訳でもない。まだ少女の正子には年上のほうが魅力的にさえ思える。
・・・でも、大伴叔父さまとは、家族ぐるみの付き合いだったのに・・・
いまさらどうやって夫として見ろって言うんだ。
叔父が嫌いな訳ではない。優しい物腰も、落ち着いた様子も好きだ。しかし、正子の記憶ではすっかり叔父は、叔父さまであり、恒世兄さまの父さまなのだ。
・・・恒世兄さま・・・

正子の父帝には、多くの異母兄弟がいたが、母を同じくするのはたった二人しかいなかった。一人は兄・平城の帝、もう一人は妹・高志内親王。しかし、正子はどちらとも直に会ったことはない。
妹・高志は、正子の生まれる前に亡くなった。
そして兄・平城の帝は、正子が生まれた年、当代の帝だった父と対立し、寵妃・薬子を自殺に追い込めさせられ、出家してしまっていた。
でも、正子は知っている。父は決して兄弟を軽んじるような性格ではなかった。むしろ母后を幼くして亡くした父は、家族は多いほどいいと思っているし、女人に対しては甘える性癖がある(その所為で正子の異母兄弟姉妹は40数名になっているのだが)。母を同じくする兄妹を簡単に思い切れることなどできなかっただろう。

兄・平城の帝と対立し、追い込めた父は、その反動か、その頃既に亡くなっていた妹姫への愛情が強くなったようで、正子は何度も高志の叔母の話を聞かされたものだ。
・・・高志は、母上によく似ていた。父上もそうおっしゃって、涙を拭ってらっしゃったものだ。乙牟漏が蘇ったようだと。結婚して母親になると、まこと、幼い頃見た母上にうりふたつになって・・・
そして、そこから、正子にとっては祖母の乙牟漏がどんなに美しい女性だったかとか、高志の叔母と幼い頃した遊びとか、高志の叔母が結婚していく時祖父が涙を流したこととか、えんえんと話が続くのだ・・・。
大伴の叔父、正子が嫁ぐ帝は、かつてその高志叔母さまの夫だった人だ。
さらに、父の母后と大伴叔父の母君が同じ藤原式家の出身だったことや、同じ年に亡くなったことなどから、父は異母弟たちの中でも最も親しく感じていた。
東宮でもあった叔父は、高志の叔母との間に生まれた4人の子供を連れて、よく遊びに来た。
年上の従兄姉たち、氏子・有子・貞子姉さまと、恒世兄さま。幼い頃、よく一緒に遊んだ(と正子は思っているが、実は面倒を見てくれていた)。正子にとってはめったに会わない異母兄弟達より近い存在だった。
・・・姉さまや、兄さまの、継母になる訳〜・・・
う〜ん、一般人の後妻とは違うから、継母というのはちょっと違うが・・・それでもやっぱり変。
顔を合せる事は少ないかもしれないが、これから、同じ内裏に住むのだ。
いままでと全く違う立場で。

ふと、昔の光景を思い出す。
恒世兄さまは、自分達よりも年上のせいか、落ち着いた感じがした。いや、年齢よりもさらに落ち着いた雰囲気をもっていたような気がする。いつも、どこか一歩引いた印象で、それでいて優しく的確な言葉をくれた。
まだ幼かった頃、あれは母が皇后になって間もない頃だったと思う。美貌の母を側に、父がよく祖母・乙牟漏や叔母・高志がとても美しかったことを話していたので、恒世兄さまに聞いた事があった。
「高志叔母さまってそんなに綺麗だったの? 嘉智子お母さまとどっちが綺麗だった?」と。
恒世兄さまは、かすかに微笑んで答えてくれた。
「母上のことは、よく覚えていないんだ。ごめんね。」
その様子が少し寂しげで、自分はどうしてこんなことを言ったんだろうと後悔した。
「でも、多分正子の母上の方が綺麗だよ。」と付け加えてくれたが、正子は余計喜ぶ気にはなれなかった。
父も、おそらく母・乙牟漏の顔はよく覚えていないだろう。でもそれだけに、母の顔が、よく似ていると言われた妹が、代え難く思えたのだ。それは、嘉智子の美貌と比較してではなく、全く別次元の、深い思い入れの形に違いなかった。

そのうち、幼い自分にも分かってくるようになった。恒世兄さまの一歩引いたような態度。それは兄さまの優しい性格から来ているだけではなくて・・・、自分との立場の違いを表していることが。
自分は、生まれた時から皇女だった。6才の時母が立后して、さらに后腹の第一皇女となった。内裏においても、叔父・氏公の邸でも、嵯峨でも、どこでもいつでも、自分は尊い存在として大事にされてきた。父と母、そしてその側近にかしずかれ、立場の危うさなど感じた事はない。
恒世兄さまは、ついこの間大伴叔父さまが即位するまで、ただの二世王に過ぎなかった。その上、母はもうない。大伴叔父さまは同母兄弟がいなかったから、今実の叔父と呼べるのは、正子の父帝のみだ。さらに、大伴叔父の母・旅子と高志叔母の母・乙牟漏は、ともに藤原式家の出身。・・・薬子の変で、勢力を失った藤原式家。今は、北家の冬嗣が勢力を持っている。
父母が親王と内親王、高貴な血筋というなら正子以上であるのに、恒世兄さまには、頼るべき後見がない。
高貴な血筋ゆえに。

「姫さまは、恒世さまのお妃になられると思っていましたのに。」
叔父との結婚が決まった時、女房たちがそう話すのを聞いた。恒世親王は正子の4才年上。年の頃からいえば、確かにそれが似合いの結婚だった。
でも、父は、母は、自分に新帝との架け橋の役割を、新帝の正妃としての役割を与えた。
その事は正子も分かっている。ただ・・・自分には遠い、途方も無い話に思えてしまう。
・・・それに・・・
恒世兄さまには、自分よりも、後見になれるような親を持った人がいいわ。母のない、外戚のない恒世兄さまに必要なのは、先帝の皇女である自分ではなくて、頼るべき臣下となれる親族を持つ人だ。
恒世兄さまのお妃には、藤原の娘がいい。

・・・こうしていると、去年と全然変わらないのにな〜・・・
正子内親王は庭を眺める。
・・・新帝の正妃・・・第一の女人・・・
・・・私も、お母さまのように、なれるかしら・・・
母のように、父に愛され、后としての務めを果たし、揺るぎ無い第一の女人となっている母のように。
「は〜。」
これから起こる出来事はまだ分からず、それ故に、若葉は伸びやかに陽を浴びている。