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.降嫁した数多くの内親王たち。一級の貴い身分であるために、多くが本人の意志ではなく、周囲の薦めに従った結婚だったと思われます。
.そこから幸せをつかんだ内親王もいれば、幸薄い結婚をした内親王もいるでしょう。 .本人の意思ではない降嫁の起こした致し方ない不幸。 .それを味わってしまった一人が、保子内親王です。 .保子内親王は、天暦三年(949)、村上天皇の第三皇女として生まれ、女三宮と称されました。 .母は後の左大臣藤原在衡の娘、藤原正妃。按察御息所と呼ばれた更衣でした。 .大臣の娘がなぜ更衣かというと、正妃が更衣だった村上天皇の代に、在衡はまだ大臣には就いていなかったのです。祖父・在衡は文章生から身を起こし、天慶四年(941)にようやく参議となっていました。保子内親王誕生から20年後、769に74才で右大臣に、翌年左大臣になります。この就任は、いわば長寿功労の意味合いが入っていたと思われるので、保子内親王の後見はあまり強いとは言えませんでした。 .父村上天皇は11皇子10皇女に恵まれました。 .他の皇女たちに比べて鍾愛された訳ではなかったようです。姉妹の順・母の位からいっても、さほど重んじられる位置にはいませんでした。 .あまたの兄弟姉妹のうち、母を同じくするのは、2才下の致平親王と、5才下の昭平親王。村上天皇の後宮で子女の数が3人以上なのは中宮安子と更衣正妃だけで、『栄花物語』に母御息所を評して、寵愛はそれ程ではないが子女の数が多いので重んじられている、と書かれています。 .後見が強いとは言えず、またさほど父の愛情を受ける訳でなくとも、少女時代はまだ健在の母と外祖父と弟二人と、穏やかに過ごせていたのではないでしょうか。 .天暦十年(956)、保子内親王は弟の致平親王とともに天皇に謁しました。当時、皇子女は外祖父の邸で生まれ育てられたので、相当大きくなってから父と対面する場合が多かったのです。保子内親王はこの時8才。 .この後は内裏に入り、母の局に住まうこともあったのでしょうか。保子内親王は筝の琴が上手く、母に連れられ、父天皇の前でも弾じたようです。 .応和二年(962)、成人儀式にあたる着裳が行なわれました。 .そんな穏やかな生活に、変化がやってきたのは康保四年(967)年、保子19才の時でした。 .父村上天皇が崩御。打ち続いて母正妃が没しました。2年後に祖父の在衡が右大臣となりましたが、翌年の(970)在衡は没しました。 .親王位にある弟たちは、成人しても名誉職に就くだけで、権力を持つ訳ではありません。中宮安子には3人の男子がいました。間違っても弟たちに皇位が巡ってくることはありえません。 .保子内親王の生活は、自然とひっそりとしたものになったでしょう。 .時が流れ、保子38才の時、降嫁の話が持ち上がります。 .相手は時の摂政の兼家、58才。保子とは親子ほどの年の差の老人でした。 .なぜこんな縁談が持ち上がったかというと、その年、花山天皇が急に出家し、代わって兼家の外孫・一条天皇が即位しました。これに伴い、それまで関白位にあった頼忠は引退し、外祖父となった兼家が新帝の摂政となりました。兼家にはかつて、道隆・道兼・道長らの母で正妻格だった時姫、道綱の母で「蜻蛉日記」の作者・藤原倫寧女などの妻がいましたが、その頃皆没していて、表面上、兼家は一人身でした。摂政の地位に在る者が一人身では不都合があるだろう、ということで、新たに正式な妻を迎えることになったのです。 .白羽の矢に当たったのが、保子内親王でした。 .摂政の正妻。臣下最高位の妻として、皇女が選ばれたのです。 .もともと三男に生まれ、兄の死・孫皇子の誕生を経て摂政に昇った兼家。すでに亡き妻たちは、いずれも受領階級の出身でした。受領階級は地位的には疎んじられますが、経済的富裕さは上流貴族を負かす程のものがありました。若かりし頃の兼家は、経済的基盤を選びました。 .しかし摂政となれば、結婚の条件は、何よりも高貴さです。受領の娘を妻にしていた過去を紛らわすためにも、身分の高い妻が必要だったのです。 .保子内親王側としても、すでに父天皇も、母も、外祖父もない皇女。これからの後見になってくれるとなれば、摂政を夫に持つことは願ってもないことだったでしょう。 .かくして、保子は兼家に降嫁しました。 .保子38才の、秋か冬の事だったと思われます。 .しかし婚儀が済み、しばらくすると、兼家の足は早くも遠のきました。 .通い婚ですので、妻は夫の訪れを自邸で待ちます。夫が通って来ないことは、結婚生活の破綻を意味しました。 .実は、妻たちを亡くして久しい兼家ですが、当時寵愛の女性がいました。 .“大輔”と称され、はじめは兼家の長女・冷泉天皇女御超子の女房でした。この頃は典侍となっていましたが、娘の女房だったのですから、無論正式に手順を踏まえた通い婚を経た夫婦関係ではなく、妾・召人といった、いわば非公式な関係でした。 .しかし、兼家の寵愛は厚く、他に美しい女性がいても戯れに声もかけない有り様で、大輔は別称「権北の方」(かりの北の方)とも呼ばれていました。周りの者も除目の際などは彼女の局に集まり、任官の運動を働きかけていたといいます。ただの愛妾にはない権勢が、彼女にはありました。 婚儀を経た夫婦でなくても、実質的な「愛妻」がいたのです。 .内親王という身分だけを買われて妻となった保子内親王には、抗する手立てがありませんでした。 .もし、保子内親王にしっかりとした後見が存命していれば、兼家も少しは気を使って、それなりに通ったでしょう。 またもし、兼家にまだ嫡子や后となるべき女子がなければ、内親王腹は高貴として、せっせと通ったかもしれません。 .しかし、保子内親王には父帝も母も外祖父もすでに亡く、そして兼家にはもうたくさんの子供がおり、孫が天皇位についた今、自分の血統の隆盛も保証されていました。むしろ安心して思う存分、権北の方と生活できる環境でした。 .兼家の足が遠のいて程なく、保子内親王は亡くなります。 .夜離れによる失意が関係していたのかどうかは分かりませんが、結婚して1年ほどしか経たない頃でした。 .3年後兼家の没した時、摂政に上り詰めた兼家の病の床には、たくさんの物の怪が出たといいます。その中に保子内親王の姿もありました。 .「様々の御物のけの中に、かの女三宮(保子内親王)の入り交らはせ給も、いみじうあはれなり」(栄花物語) .内親王という高貴さを乞われて結婚したものの、わずかの間に結婚は破綻し、亡くなった保子内親王。その辛さは内親王という身分の起こしたものであり、そして内親王の矜持ゆえのものだったでしょう。 |