内親王の嫁ぎ先〜江戸編〜

子女
婚儀の年
備考
後陽成 近衛前子
清子内親王
鷹司信尚 教平 1604年,12才
後陽成 近衛前子
貞子内親王
二条康道 光平 1623年,17才
後水尾 徳川和子
昭子内親王
近衛尚嗣 基煕 1637年,14才
後水尾 徳川和子
賀子内親王
二条光平
1645年,14才
後水尾 園基子
常子内親王
近衛基煕 家煕・煕子ら 1664年,23才
後西 清閑寺共子
益子内親王
九条輔実 師孝 1686年,18才
霊元 坊城房子
憲子内親王
近衛家煕 家久 1683年,15才
霊元 鷹司房子
栄子内親王
二条綱平
1685年,13才
霊元 松木宗子
福子内親王
伏見宮邦永親王 貞建親王・
光子女王
1698年,23才
霊元 松室敦子
吉子内親王
(徳川家継)

(婚約者死去)
東山 幸子女王
秋子内親王
伏見宮貞建親王 猷子女王・
豊子女王
1719年,20才
中御門 久世夏子
成子内親王
閑院宮典仁親王
1749年,21才
後桃園 近衛維子
欣子内親王
光格天皇 温仁親王・
悦仁親王
1794年,16才 中宮。新清和院。
仁孝 甘露寺妍子
淑子内親王
(閑院宮愛仁親王)

(婚約者死去)
仁孝 橋本経子
親子内親王
(有栖川宮熾仁親王)
徳川家茂


1862年,17才
(破談)

室町から戦国時代にかけては、皇室の衰微(要するにビンボー)は激しく、立后が行なわれなかったのははもとより、即位式さえままならない有り様だったので、当然、内親王宣下される皇女はほとんどいず、降嫁もありませんでした。(ほぼ出家です)
江戸時代に入った後も、おそらく経済上の理由からでしょう、内親王宣下を受けず出家し、尼門跡を継ぐ皇女が多数を占めました。内親王となった皇女が少ないため未婚の皇女の数は多いですが、未婚の「内親王」は少ないです。
しかし幸運な何人か皇女は内親王宣下を受け、しかるべき相手への降嫁の話が持ち上がりました。中宮となった欣子内親王を除き、五摂家、もしくは四宮家と、徳川宗家が縁組の相手となっています。

江戸初期、それまで絶えて久しかった内親王降嫁が、後陽成天皇の時に復活しました。
四宮家は江戸時代以前では伏見宮家以外存在しておらず、五摂家との縁組が多かったようです。後陽成天皇の皇女の清子・貞子内親王が鷹司家・二条家に降嫁した他、皇子の信尋・昭長が近衛家・一条家に養子入りし、江戸初期の天皇家と五摂家は大変近い関係にありました。
その後しばらく、五摂家との縁組が続きますが、霊元天皇の四女・福子内親王から後は、徳川宗家以外はもっぱら天皇か宮家への降嫁です。
霊元天皇の十二女・吉子内親王と将軍徳川家継との縁談が整い、結幣の儀が執り行われましたが、婚儀には至らず、家継が早世しました。

東山天皇以後、降嫁する内親王の数は少なくなります。
欣子内親王を除く縁談相手は、実現しなかった淑子・親子内親王も含めて、四宮家です。偶然五摂家と縁談が整わなかったのかもしれませんが、「嫁しては家に入る」という思想が広まったことで王籍を重んじる風潮となったのでしょうか。
江戸以後、明治から戦前にかけても、内親王の結婚相手は宮家に限られました。

仁孝天皇皇女・親子内親王(和宮)は、かねてから有栖川宮との婚約を破棄し、将軍徳川家茂に嫁しました。江戸時代、内親王が関東への輿入れした唯一の例。
はじめての洛外への内親王降嫁に当たって、内裏の典侍であった庭田嗣子に補導役に据え、生母の勧行院橋本経子も付き添い、多数の侍従を引き連れての降嫁となりました。