内親王の嫁ぎ先〜おまけ@〜
*賜姓源氏の皇女*

嵯峨天皇の皇子女より始まった賜姓源氏。源朝臣の姓を賜った皇子女は、王籍を抜けて臣下身分に下ります。
源氏に下るのはどちらかといえば男子の二世王以降が多かったのですが、嵯峨天皇が自身の娘10人余りを源氏にしたのを始め、平安初期から中期にかけて、天皇の皇女の賜姓も行なわれました。 平安中期を過ぎる頃になると、皇子女の賜姓源氏、いわゆる「一世の源氏」は少なくなり、源姓の皇女は見られなくなります。
ここでは、結婚した一世の源氏の皇女のうち、メジャーな方を取り上げてみました。

源 潔姫・・・生没年810〜856 夫:藤原良房(摂政太政大臣)
嵯峨天皇の皇女。母は当麻治田麻呂の娘。天皇の鍾愛の皇女であったという。 814年に源姓を賜る。嵯峨天皇は潔姫の夫選びに心を砕き、近臣冬嗣の次男で若き時の良房を選び、夫としました。 829年に明子を生む。明子は文徳天皇の女御となって清和天皇の生母となり、潔姫も天皇外祖母として858年に正一位を追贈されました。 生前の極位は正三位。琵琶をよくしたと伝わります。

源 和子・・・生没年?〜947 夫:醍醐天皇
光孝天皇の皇女。母は不詳。 885年に源姓を賜り、のちに醍醐天皇の女御となりました。先に醍醐天皇の妃であった異母姉妹・為子内親王の死後のことでしょう。 903年に慶子内親王を生んだのをはじめとして、ほか常明・式明・有明親王、韶子・斉子内親王の三男三女をもうけました。 承香殿を曹司とし、承香殿女御と呼ばれる。文芸サロンを築きました。

源 順子・・・生没年875〜925 夫:藤原忠平(関白左大臣)
“斤頁”子ともいう。光孝天皇の皇女か。 宇多天皇の皇女と書かれるが、生没年からして宇多天皇が9才の時の生まれとなり、とても実の娘とは考えがたいので、光孝天皇皇女で宇多天皇の養女となったものと解されています。 『大和物語』によると「菅原の君」と称されました。母は光孝天皇の後宮・菅原類子か。 宇多天皇の御代、時の関白藤原基経の次男・忠平に嫁しました。宇多天皇は順子の婚儀を朱雀院の西対で挙げるなど、格別の配慮をしました。 忠平の長男・実頼を生む。忠平に先立ち、925年に死没。忠平の哀傷歌が残ります。