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藤原兼家 ├──―─────―――――――――─―┬―――――――─────――┐ |−−−−−−−−−−−−−−−−−−−│−−−−−−−−−−−−−−│ 道隆−−−−−−−−−−−−−−−−−-詮子━━┯━━円融−−−−−−道長 ├─―┬──┬―――┐−−−−−−−−−−−−-│−−天皇−−−−−−-| │−−│−−|−(後匣殿)−−−−−−−−−−−-│−−−−−−−−−−-├─―─┬――┬――┐ 伊周−隆家−|−−−−−−−−−−−−−−−−一条−−−−−−−−−−|−−頼通−教通−頼宗α |−−−−−定子━━━━━━┯━━━━━━━━天皇━━━━━┯━━━━彰子−−‖ |−−−−−−−−−┌―――┼―─―――┐−−−−−−┌──┴──┐−−−−−‖ 女━┯━頼宗α-−−−|−−−|−−−−−│−−−−−−|−−−−−|−−−−"女原"子β −−│−−−−−−脩子−−敦康親王−"女美"子−−−後一条天皇−後朱雀天皇 −−延子−−−−-内親王-−−|−−−−内親王−−−−(敦成)−−−(敦良) −−−−−−−−−−−−−-女原"子β |
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詳しくしようとするとあちらこちらで繋がって分かりにくいので、簡略な系図になってしまいました。 脩子内親王の父は一条天皇。母は藤原定子。天皇17才、母21才の時に生まれた第一子です。 同母の弟妹に敦康親王(3歳下)、"女美"子内親王(4歳下)。 母方の叔父・叔母は結構多くいましたが、特に関わりの深かったのは、亡き母の同母の兄弟である伊周と隆家。それから母代となった御匣殿ですね。 御匣殿は、まだ定子が存命のころ、五月の節句の薬玉を送ったりもしています(ついでなので下に引用)。あれこれと目を掛けられていたのでしょう。 異母の弟妹は、二人とも道長女・中宮彰子の所生で、後一条天皇(12歳下)、後朱雀天皇(13歳下)。 養女となった延子は、母方の伯父・伊周の長女の生んだ次女で、父親は藤原頼宗。 延子は脩子内親王とは20歳違い。母親の伊周長女は脩子内親王とは年も近く、それなりに交流があった仲であったと推察されます。 何年から養女になったのか分かりませんが、延子は幼くより竹三条宮にて養育されたと伝わります。 (本文にも書いた竹三条宮での脩子内親王の様子もついでなので、下に引用) ちなみに、脩子内親王の御名、普通に読めば「ながこ」。ですが昔の世の中には、とんでもない読みをする場合もあるので、どう読むかは不明です。 脩子の「脩」は、「修」と同意義語。「学問を修める」とかの「修」です。学んで身につける事、身を高めるために努力する事の意味があり、賢く自律した女性に育ってほしかったのでしょう。 |
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長保二年(1000)五月、三条宮に滞在する母定子 〔枕草子 二三九段〕 |
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.三条宮におはしますころ、五日の .わかき人々、 ..みな人の花や .この紙の端をひき
《テキトウ訳》 |
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長元三年(1030)頃の脩子内親王の三条宮 〔栄花物語 巻三十一殿上の花見〕 |
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《訳》 |