〜誕生〜


長徳二年(996)4月、前の関白の子息、内大臣藤原伊周と、その弟権中納言隆家に配流命令が出されます。 先帝・花山上皇を射た罪でした。これにより、兄弟は官位を剥奪され、それぞれ西国へ送られます。伊周・隆家兄弟と時の内覧藤原道長は対立関係にあり、この事件によって、道長の勢力は決定的になりました。
その影響はもちろん、後宮にも及びました。かつては一条帝の後宮を独占し、かつ寵愛の深かった中宮・定子、和歌をよくし、才知に富んだ美女だった彼女も、この事件によって内裏を退出し、里邸二条第に移りました。居たたまれなくなったのか、あるいは間もなく都を離れる兄弟との別れのためだったのでしょうか。
5月2日、定子は自ら鋏を取り、髪を切り出家しました。衝動的なものにしろ、二度と後宮に戻れないとの覚悟があってこそできる行動でした。

しかし、一条帝の寵愛は変わる事なく、むしろ寄る辺なき定子の身の上に心を寄せるばかり。他の女御方に目を移す事もなく、強く定子の内裏帰還を求めました。
そして、その心をさらに強くしたのが、定子の懐妊です。定子は既に身ごもっていました。内裏を退出したときは4月の末、逆算すれば妊娠初期でまだ確定的なことで無かったのでしょうが、時が経つとともに中宮の懐妊は間違いなくなっていきました。兄弟の断罪という激しいショックが、彼女に妊娠の兆候を見逃させていたのかもしれません。

定子の懐妊、それは帝と定子を再び結び付ける強い絆になるとともに、希望になりました。とはいえ、定子の一族の不幸はなお続き、6月里邸二条第の消亡、10月母高階貴子の死去。一族の勢力は日に日に衰えていきました。

里邸を失った定子は、伯父、高階明順邸に移り、やがて月満ちて、12月16日、皇女が生誕しました。
この時生まれたのが、後の脩子内親王。一条帝と定子の第一子でした。
当時、母貴子の喪により定子は喪服姿でしたが、生まれたばかりの姫宮はそんな周りの暗い雰囲気にも飲まれず、色白でかわいらしく、帝から遣わされた右近内侍を感嘆させました。

翌年、長徳三(997)年の2月9日には五十日の儀が催され、小さな姫宮はすくすくと成長していきました。
同年、4月5日、一条帝の母・東三条院の病快癒のための大赦で、伯父伊周・隆家の召還の許可が出されました。周辺には再び、明るい空気が流れたでしょう。

当帝の初めての御子。その御子との対面は、他の公卿達にも面と向かって反対できない事です。それを背景に、6月22日、一条帝はついに脩子内親王を内裏に呼び寄せ、そしてその母である定子の再入内をも果たしました。
脩子内親王、7ヵ月。不幸を乗り越え、久しぶりに会いまみえた両親に挟まれて、脩子は父と対面しました。そして父を見る母と初めて見たのもこの時でした。


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