〜母の死〜


母と伴に内裏に入った長徳三(997)年の暮れ、12月に脩子は内親王宣下を受け、名実ともに皇女たる地位になりました。

翌四(998)年の12月、脩子内親王の、袴着の儀が内裏の登華殿において行なわれました。現在の七五三にあたるこの行事、脩子は数え年で3才になっていました。袴の腰紐を結ぶ役を勤めたのは内覧左大臣・道長。
母定子にとっては複雑な思いだったかもしれませんが、腰紐を結ぶ役をするということは、即ち今後の後見役を公に宣言するようなこと。娘の今後を思えば、時の権力者道長がこの役に当たることも悪い事ではないと考えたのでしょう。
道長側としても、第一皇女の生母となった定子サイドに露骨な敵対関係を示すわけにもいかず、また皇女の腰結役を勤めるのはそれなりの名誉でもありました。
かくして、おそらくこの日はじめて、脩子内親王は道長と会ったわけですが、なにしろ3才。大して印象にも残らなかったと思われます。

そのまた翌年の、長保元(999)年には弟敦康親王が誕生し、脩子内親王は早くも姉上になりました。伯父たちが都を追われる前ならば、さぞ華やかだったに違いない第一皇子の誕生でしたが、後宮には既に内覧・道長の長女彰子の入内が決められており、中宮定子の立場も微妙なものでした。彰子は11月に華々しく入内し、藤壷に入りました。
翌二(1000)年2月25日、女御彰子は立后し中宮を称し、定子は中宮から皇后宮に改称されました。一帝に二人の后。二后並立の初例でした。

勢いの薄くなっていく定子の周辺において、最大の楽しみにして希望だったのは、脩子と敦康という幼子たちでしたでしょう。

その年、母・皇后宮定子が再び懐妊し、中宮大進・平生昌の竹三条宮へと移りました。この時、脩子内親王と敦康親王も伴に竹三条宮へと移ったようです。出産で多くの女房が伴に退出するため内裏に置いておくわけにもいかず、かといって他に預ける先とてなく、連れだってきたのでしょう。
やがて、12月15日の深夜、定子は出産の時を迎えました。生まれたのは皇女。しかし、日付が変わって翌日の未明、定子は死去しました。後産(胎盤の排出)が出来なかったのです。
冬の寒さの中、やがて冷えていく遺体に、兄伊周は声を惜しまず泣きつき、やるかたなく、母にまとわりつく敦康親王をどけて、座産の姿勢のままだった遺体を横たえたといいます。
おそらく隣室あたりで、弟妹の誕生と母への祝福を述べるために待っていたのでしょうが、母定子の死の穢れを避けるため、長い別れもなく、脩子と敦康は別室に移されました。

底冷えする寒さと闇の中で、脩子内親王は妹の誕生と、そして間もなく母の死を知らされたことでしょう。母定子25才、脩子5才。二人の弟妹はそれぞれ2才と1才の乳児で、母の死が理解できるのは、脩子だけでした。


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