〜一品の宮〜


脩子内親王と弟妹は、皇后宮たる母を失い、さらに微妙な立場になりました。父・一条帝は立場上全面的にバックアップするという訳にもいきません。脩子内親王と敦康親王は、とりあえず伯父・伊周の邸に移され、生まれたばかりで母を失った妹姫は父方の祖母、東三条院詮子に引き取られ、養育される事となりました。

喪が過ぎ、脩子と敦康は内裏に移りました。後見の薄い内裏での生活を慮って、叔母、母の末の妹が御匣殿として入内し、脩子内親王と敦康親王の母代を勤めることとなりました。栄花物語によると、定子は死の以前に、彼女に子供達の後見を頼んでいたとあります。おそらくそれ以前に面識もあっただろう実の叔母、幼い二人にとっては心強いことだったでしょう。
一方、そうして、定子の実妹の御匣殿に、亡き后の面影を見たのかなんなのか、一条帝が皇子女の母代たる彼女に手をつけ、御匣殿は懐妊しました。脩子としては、女の子ですし、あまりいい気はしなかったでしょうが、まあ叔母を新たな家族だと思って喜んでいたかもしれません。
しかし、宿下がりした御匣殿は妊娠中に死去。姉弟はさらに母代を失いました。長保四(1002)年6月3日のことです。
母定子の他の妹は二人いましたが、どちらも結婚しており、新たに母代として入内することは出来ません。
そこで、まだ子のない中宮彰子が敦康親王の母代となり、その父・道長が後見役となることになりました。まだ若いとはいえ、将来も彰子に皇子が生まれなかった時に備えたとも考えられます。しかし脩子内親王の正式な母代とはならず、彼女の後見は心細いままでした。

この将来の確定のない状態に、一条帝は不安があったのかもしれません。脩子内親王が10才になると、早くも裳着の儀を挙行しました。寛弘二(1005)年、腰結役は袴着に続き内覧左大臣・道長、結鬢役には一条帝女御の一人藤原尊子(母は一条帝の乳母)、理髪役には帝の乳母・従三位橘徳子がそれぞれ勤めました。腰結役に権力者道長を配し、結鬢役に女御を配する荘々たる式でした。同日、脩子内親王は三品に叙されました。
10才での成人、父・一条帝も元服は11才の時であり、中宮彰子の裳着も12才ですから極めて早い訳ではないですが、やはり早めのことです。

さらに翌三(1006)年正月には二品に昇り、また翌四(1007)年正月、一品に叙され、准三后を宣下、本封の他に一〇〇〇戸を与えられました。一品准三后は、いわば当時内親王に授けられる最高の位であり、また何もしなくても年官年爵(ようするに収入)が入る地位です。
それまでに一品と准三后を授けられたのは、醍醐帝十四女・康子内親王、村上帝九女・資子内親王。それぞれ35才、19才のとき准三后を宣下され、時の帝の同母姉です。康子内親王は当時の村上帝のただ一人の同母姉、資子内親王は当時の円融帝のすぐ上の同母姉でした。
そんな中、当帝の長女という立場、12才でありながら、脩子が一品准三后に叙されたのは父帝の配慮の表われといえるでしょう。あるいは、脩子が将来、帝の同母姉になれないかもしれないことを見越していたのかもしれません。

2年後、寛弘五(1008)年5月、祖母詮子の死によって共に暮らすようになっていた“女美”子内親王、妹が、信濃守藤原佐光の郁芳門邸にて病死しました。もともと病がちであり、その年の正月には清水寺へ参籠させるなど、父一条帝の回復への願いも空しく、9才でした。

その7ヶ月後の12月、中宮彰子が第二皇子・敦成親王を出産しました。その翌年さらに、第三皇子・敦良親王が産まれます。後の後一条天皇・後朱雀天皇です。


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