〜一条院里内裏退出〜


寛弘八(1011)年6月22日、脩子内親王の父、一条帝が里内裏の一条院にて崩御しました。寛弘二(1005)年11月に内裏が焼失して以来、一条院が里内裏になっていました。 一条帝、享年32才。残された脩子16才、敦康13才、中宮の彰子は24才、敦成・敦良はわずか4才と3才でした。
崩御の直前13日に一条帝は譲位。代わって従兄である三条帝が即位し、新たな東宮には敦成親王が選ばれていました。
敦成親王立太子の決定に、脩子の叔父・隆家は深く恨んだといいますが、第一皇子、亡き皇后宮の遺児であっても、後見の少ない敦康親王の立太子は他の勢力、とりわけ道長サイドの反発に遭うのが必定でした。ちなみに、もう一人の伯父・伊周はこの2年前に没していました。

それまで、二人の異母弟の誕生がありつつも、脩子姉弟と養母・彰子サイドの関係は均衡を保っていました。しかし、それは一条帝という繋ぎ目と、敦康親王の第一皇子という地位と、ささやかな情愛に支えられていたのです。

父帝の七七会法要の済んだ8月11日、脩子内親王は、ひとり一条院を退出し、叔父隆家の邸宅に移り、道長の不快を買ったそうです。父帝の死後、道長の庇護のもとにあることを潔しとしない強い意志があったと考えられます。
道長としては、袴着・裳着ともに腰結役を勤め、後見を公認した形の皇女が、自らそれをあからさまに拒絶するような行為を取った訳ですから、むかっと来るのも必定、というところでしょうか。
しかしこの時、一条院を後にしたのは脩子のみで、弟の敦康親王は引き続き一条院に留まっていました。敦康親王は、その後も彰子側の庇護を受けることになります。

2年後、長和二(1013)年、脩子内親王は竹三条宮に移りました。
竹三条宮、かつて母と弟と最後の日々を過ごして地、母定子の没した地でもあるここは、平生昌の邸宅でしたが、定子の死後、脩子内親王に献上されていました。脩子内親王は以後、長くここを御所とすることになります。
ここは平安京三条四坊二町、押小路南・東洞院大路東に所在し、『枕草子』二〇に「たけ三条」の名で謳われた名邸でした。脩子内親王が御所としてからは主に三条宮と呼ばれます。
思い出深き邸に再び帰った脩子内親王は、18才になっていました。

寛仁二(1018)年12月、敦康親王が薨去。時に式部卿、20才。ついに東宮になることなく、失意の内の早世でした。
敦康親王も既に結婚し、別々の生活を送っていたとはいえ、ただ一人の同母弟の死でした。敦康の遺児たる姫は、母方の叔母夫婦である藤原頼通夫妻に引き取られました。
幼き頃よりともに過ごし、後見の少ない中でともに支え合った弟の存在は、ともに過ごしていなくとも脩子の心の支えだったでしょう。しかし、その最も近い肉親の死は彼女に大きな喪失感を抱かせたことでしょう。
脩子内親王は、それからまもなく養女を迎えました。


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