〜養女〜


弟・敦康親王の死より数年の間に、脩子内親王は養女を迎えました。時の権大納言藤原頼宗の二女、名は延子。母は伊周の長女であり、脩子からみると従姉の子に当たりました。
延子は1016年生まれなので、脩子内親王とはちょうど20才違い。寛仁四(1020)年、延子5才での袴着の記事が小右記にあるので、この年に養女に迎えられたとすると、脩子内親王25才の時です。確かに母親になっても全くおかしくない年齢ですが、独身の内親王が養女を迎えるのには、いささか早めのことです。
とはいえ、結婚の可能性は低く、既に父母を失い、同母弟妹をも失った脩子内親王にとって新たな家族を迎えることは重要なことだったのでしょう。延子は脩子内親王の御所・三条宮に引き取られ、養育されました。
実父・頼宗の、娘を高貴なる内親王に養育してもらって、箔をつけていずれは入内させようという魂胆に気付かぬ訳ではなかったでしょうが、まだ幼く無邪気な延子は、脩子内親王に喜びをもたらしてくれました。亡き弟や妹の幼い頃の姿に、重ね合せることもあったかもしれません。

それ以前より仏心が深かったという脩子内親王は、万寿元(1024)年3月3日、にわかに落飾。叔父の隆家にも知らせておらず、制すことが出来なかった隆家は大層泣いたといいます。その後、天台座主院源により受戒しました。29才でした。
父帝の授けた一品准三后の収入によって経済的に困ることはありませんでしたが、父母も同母兄弟も有力な後見のなく、政権勢力とは離れた身の上。時に道長の娘たちがそれぞれ太皇太后・皇太后・中宮となり、末娘も東宮妃となって後宮を独占し、道長政権の最盛期でした。
髪を下ろし尼僧姿となり、脩子内親王は、政権の渦からはさらに遠い存在なりました。あるいはそれを望んでの出家だったのでしょう。
ですが、出家後も脩子は竹三条宮に住まい、一品内親王の待遇を受け続けました。一品内親王の待遇が残されたのは、異母とはいえ、ただ一人の皇姉である脩子内親王への、後一条帝や国母・彰子のささやかな配慮だったのかもしれません。この後は「入道一品の宮」と呼ばれることになります。
養女・延子も引き続き、竹三条宮に同殿して脩子の養育を受けました。

竹三条宮での生活は、出家によってむしろ気楽になったのかもしれません。長元三年頃の栄花物語の記述によると、脩子内親王は御手(書)が美しく、また、琴・琵琶を弾く女房たちが出仕していて、趣き深く弾き合せ、管絃遊びをしている。養女の延子も、筝の琴を上手に弾く、とあります。
教養の深かった脩子の周りには、自然、後宮とは違った雰囲気のサロンができていたのでしょう。
後に、百人一首の歌人の一人・相模も、脩子内親王家の女房となりました。

脩子内親王の出家からしばらくして、繁栄を誇った道長一家に不幸が相次いで起こりました。万寿二(1025)年7月小一条院妃寛子、8月東宮妃嬉子、四年(1127)5月右馬入道顕信、9月皇太后妍子、2年の間に四人の子を失った後、12月藤原道長が亡くなりました。
栄華を極めての往生でしたが、必ずしも安らかな死とは言えない、長患いと子供達の死の後での死でした。


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