〜延子入内〜


長元二(1029)年頃、先年に死去した頼宗の同母妹・寛子の後添えとして、頼宗の長女が小一条院・敦明親王の妃となりました。身分上申し分ないとはいえ、敦明親王はすでに時の権力から外れた身ある上に、壮年で子供も数多く、頼宗としてはいささか不本意な結婚だったようです。
そのため、脩子内親王の養育する次女・延子への期待が、より強くなることになりました。
脩子内親王の養育を受けた延子は、容姿美麗で、筝の上手であったと伝わります。父の期待もいや増すところだったでしょう。

この頃、時の帝・後一条帝には中宮に道長三女の威子が、東宮敦良親王には道長の外孫の禎子内親王がそれぞれただ一人の妃である中、三人の姫の入内が取りざたされていました。
道長の長男、関白左大臣・頼通の養女で、故敦康親王の娘、“女原”子。正妻倫子腹のため次男扱いされる内大臣・教通の長女、生子。そして、倫子に次ぐ妻の明子腹の長男、権大納言・頼宗の次女、延子。
しかし、仮にも同じ一族である威子には遠慮せざるを得なかったのか、年月を重ねる内に、長元九(1036)年、後一条帝は29才で崩御してしまいました。脩子内親王にとっては、入内問題以前に、異母弟の早すぎる死でした。
代わって即位したのは後朱雀帝。その妃は、道長外孫とはいえ、父母を亡くして久しい禎子内親王ただ一人でした。この年、待ちに待った実娘の誕生もあった関白・頼通は、養女の入内を断行します。翌年1月、早速“女原”子が入内、女御となりました。敦康親王の遺児であり、脩子内親王にとっては実の姪にあたります。
体面上、さすがに東宮時代からの妃であり一男二女の母である禎子内親王を差し置くのは控えたのか、2月に禎子内親王は中宮に立后。しかし、翌3月には“女原”子が中宮となり、禎子内親王は皇后宮となりました。わずか1ヵ月で皇后宮へと移った禎子内親王は、長女良子・次女娟子をも斎宮・斎院として手元から離され、幼い皇子・尊仁親王とともに里邸に引きこもりました。かくして、後宮は新中宮“女原”子の独占状態となりました。
実の姪の結婚と立身は、脩子内親王にとっても嬉しい出来事だったでしょうが、押しやられる皇后宮禎子のことを思えば、複雑な気持ちだったかもしれません。

強引な手を使ってまでも、頼通の期待を受けての入内でしたが、“女原”子は2年後の長暦三(1039)年8月、24才で二人の皇女を残して没しました。
しかし、これによって後宮の独占が解かれ、皇后宮禎子が再び入内、またその年の11月、内大臣・教通の娘、生子が女御として入内しました。さらに、長久三(1042)年3月26日、脩子の養女・延子が後朱雀帝に入内します。

先に入内した女御生子への寵愛は厚く、また既に二男四女の父である帝への入内はいささか気掛かりであったでしょう。しかし、延子もすでに27才。父の期待を受けて婚期を逃し、もはや臣下の妻になる見込みは薄くなっていました。今は独身のままでもいいとしても、養母・脩子内親王が没し、父頼宗が没すれば、強い後見はありません。帝に入内し、皇子女を儲ければ、国母になれぬまでも、今よりも安定した身分となれます。脩子内親王も47才となり、当時としては老年に差し掛かろうとしていました。

延子の入内には、養母として脩子内親王が付き添いました。一条院里内裏を単身退出したのは31年前。その頃には思いもよらない形での、内裏入内でした。
内裏に入り、今となっては唯一の兄弟となった末の弟、後朱雀帝との対面もあったことでしょう。父帝が亡くなった折りにはわずか3才で、父の死を理解していなかった異母弟も、34才。父の没年を過ぎていました。後朱雀帝からすれば幼くして別れた姉、どのような会話がこの間であったのでしょうか。
当時の内裏では、弘徽殿に皇后宮禎子、梅壷に女御生子、藤壷は亡き中宮“女原”子の二人の皇女が局とし、梨壷に東宮であり第一皇子の親仁親王、宣耀殿に東宮妃・章子内親王がいました。延子は麗景殿を居所とし、「麗景殿女御」と呼ばれることになりました。
栄花物語によると、脩子内親王は、隣の宣耀殿に住まう姪・章子内親王(後一条帝第一皇女)とも対面したそうですが、詳しい事は書かれていません。章子内親王は、父帝と母中宮を亡くし、祖母であり伯母である上東門院彰子の後見を受けていました。その年17才、昔、敦康親王の母代であった頃の、若き彰子の面影が見えたかもしれません。同じ第一皇女に生まれ、同じく一品准三后を授けられた身ですが、章子内親王は東宮妃として、脩子内親王とは別の道を歩んでいました。
やがて、三日ほど内裏に滞在した後、脩子内親王は竹三条宮に帰りました。
娘のいなくなった邸はいささか寂しくなったでしょうが、これで一安心という思いだったでしょう。

しかしそれもつかの間、後朱雀帝は寛弘二(1145)年正月、37才で崩御しました。その時、延子は妊娠7ヵ月で、里邸に退出していました。残された唯一の弟であることからしても、延子の妊娠中であることからしても、この死は脩子に深い悲しみをもたらしたことでしょう。
皮肉なことに一条帝の三男二女の中で最も年長である脩子が、最も長く生きたのです。


前章へ 次章へ

トップへ