〜薨去〜


寛弘二(1145)年4月、異母弟・後朱雀帝の死から3ヶ月後、延子は無事女子を出産しました。生まれた時より父のない皇女は正子と名付けられます。脩子内親王は、50才で義祖母となりました。
正子内親王は、すでに亡き先帝の第五皇女という、勢力とは程遠い身分でしたが、健やかに育っていきました。この後、養女の延子は80才、正子内親王は70才の長命を保ちました。思えば、ほとんどの身内とよべる身内を失った脩子内親王にとって、この娘と孫が健やかであったことは、なによりの救いであったかもしれません。
永承二(1048)年八月、延子の実父・頼宗が、56才で遅まきながら内大臣となりました。年齢順の人事でしたが、養女の行く末を考える際、これで幾分ほっと出来たでしょう。これを受けて、永承三(1049)年、延子は従三位に叙されました。

後朱雀帝の後、東宮であった後冷泉帝が即位、次の東宮には禎子内親王を母とする尊仁親王が付いていました。かつての“女原”子入内を巡る確執から、関白頼通と禎子・尊仁母子は険悪な仲であり、やがてこの事が、摂関政治全盛の幕を下ろさせるきっかけとなります。
しかし、脩子内親王にはもはや、遠い話でした。

永承四(1049)年、春の2月7日、脩子内親王は54才で生涯を閉じました。延子34才、5才になる正子に見送られての、ひっそりとした死でした。
教養深く、また美しく、父・一条帝の愛娘であった皇女は、後半生のほとんどを政権の勢力からは離れて過ごしました。
父も母も、弟妹も、伯父たちも、幼き頃の脩子をよく知る人々はほとんどが世を去っていましたが、ただかつて敦康親王の母代であった彰子はまだ生きていました。

脩子内親王の死後、彼女が深く関わり、長年御所とした竹三条宮は、養女延子に伝領され、その死後にはまたその娘である正子内親王に伝領されました。しかし、承徳二(1098)年2月2日の大火で全焼。時の関白藤原師通は、正子内親王に別の御所を提供する代わりにここを領し、隣接する自邸と合わせて南北八四丈に及ぶ二条殿を造りました。
かくして、竹三条宮も平安の歴史の中に去っていきました。


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