高階貴子〜略歴〜

高階 貴子【たかこ】 ? 〜996.10
 <高内侍、儀同三司母>
父:式部大輔 高階成忠
(夫・道隆と同年齢と仮定します)
    969(17才) 円融天皇即位[〜984]、この帝の御代に宮仕えし、掌侍となる
    972(20才) この頃、藤原道隆と結婚
    973(21才) 長男・伊周(幼名:小千代)を生む
    977(25才) 長女・定子を生む
    979(27才) 次男・隆家(幼名:阿古)、三男・隆円を生む
    981(29才) この頃、次女・原子を生む
    982(30才) この頃、三女を生む
    985(33才) 長男・小千代元服(13才)、伊周と改名,この頃、四女を生む
    986(34才) 一条天皇即位、舅・兼家摂政となる(6月)
    ....... 夫・道隆、権中納言(7月5日)、権大納言(20日)
    989(37才) 夫・道隆、内大臣となる
    ....... 次男・阿古(11才)元服、隆家と改名
    990(38才) 長女・定子(14才)、一条天皇(11才)に入内(1月)、女御宣下(2月)
    ....... 兼家の死により、道隆関白に就任(5月)、定子、中宮に冊立(10月)
    ....... 従三位に叙される
    991(39才) 長男・伊周(19才)、権大納言となる
    992(40才) 孫〈伊周の長男〉道雅(幼名:松君)誕生
    994(42才) 長男・伊周(21才)、内大臣となる
    995(43才) 次女原子、東宮居貞親王に入内(1月)、この頃三女、敦道親王と結婚
    ....... 夫・道隆とともに出家、道隆没(4月)
    996(44才) 伊周(23才)・隆家(18才)、花山法皇を射させた罪により配流(4月)
    ....... 死去(10月)
  • 所生の子女
    973〜1010... 伊周(小千代君,内大臣・儀同三司)
    977〜1000... 定子(一条天皇皇后)
    979〜1044... 隆家(阿古君,権中納言・太宰権帥)
    979〜1004... 隆円(権少僧都・延暦寺大僧都実円の弟子)
    981?〜1002...原子(三条天皇東宮女御)
    982?〜 ? ...三の君(敦道親王室)
    985?〜1002...四の君(御匣殿)
*高階成忠の娘。学者の家系であることから、才高く、女ながらに漢文の詩歌・作文を書き、清涼殿の詩宴の際には詩文を奉るほどで、その才は少々の男を超えたという。
円融天皇の代に宮仕えし、掌侍に任じられ、「高内侍」と称されました。藤原道隆が通い始めたのもこの頃と思われます。伊周誕生の年、道隆は従五位上の蔵人。政権は道隆の父兼家ではなく、その兄の兼通の一家にあり、道隆には確たる正妻がいませんでした。
道隆が通い始めた頃詠んだ歌として著名なのが、「忘れじの行末までは難ければ今日を限りの命ともがな」。あなたの想いが将来までずっと続くか分からないから、いっそ幸せな今日限りの命であって欲しい、というもの。
結婚当時、道隆には既に長男大千代(道頼・伊周の3才年上)がおり、学者階級の出身である貴子には将来の不安があったのでしょう。
しかし“后がね”たる長女・定子を含め3男4女にも恵まれ、遅くとも定子の入内の頃には、道隆の嫡妻として、その邸二条殿に迎えられ、同殿していたものと思われます。長女・定子の入内、中宮冊立により、従三位に叙されました。
関白の正室となり、息子は内大臣・権中納言、長女と次女は中宮・東宮女御となり、栄華を手にしましたが、夫道隆の死により、事態は暗転。翌年、花山院を射させた罪により伊周と隆家が太宰権帥と出雲権守に左遷され、配流。その年の10月、失意の内に死去。享年は40代か。死去の時、伊周と隆家はともに配流の地におり、葬儀にも駆けつけることは出来ませんでした。
古風な性格で、清涼殿の詩宴に招かれた時、殿上を許された身でないため、内裏に昇る際には大盤所(殿上を許された女房の詰め所)から入らず、弘徽殿の上の御局より入り、二間に侍っていたという一面を大鏡が伝えています。