足利将軍家の正室

生没年 プロフィール
尊氏室 赤橋 登子 1306〜1365 父は赤橋久時、母は北条宗頼の娘。鎌倉幕府最後の執権、守時の妹。2代将軍義詮・鎌倉公方基氏・鶴王を生む。孫・義満の将軍就任を見届けて死没。
義詮室 渋川 幸子 1332〜1392 渋川義季の娘。男子千寿王を生んだが5才で早世。側室・紀良子の生んだ義満・満詮を養育した。大御所渋川殿と呼ばれる。
義満室 日野 業子 ? 〜1405 権大納言・日野時光の娘。朝廷に仕え従二位典侍であった叔母・日野宣子の仲介により義満と結婚。女子を生むが早世。 正室として室町御所に住み、従二位。死後、従一位。
義満室 日野 康子 1369〜1419 権大納言・日野資康の娘。義満先妻の業子の姪。業子の死後義満に嫁した。 後小松天皇の准母となり、准三后宣下、次いで女院号を受け北山院と号す。子女はなし。
義持室 日野 栄子 1390〜1431 権大納言・日野資康の娘。義満室康子の妹。義持に嫁ぎ義量を生む。 1423年義量は5代将軍となるが、2年後に19才で早世。さらに3年後夫・義持にも先立たれた。従一位。
義教室 日野 宗子 生没年不詳 大納言・日野重光の娘。1428年にくじ引きで将軍となった義教の正室となる。 子女はなし。妹重子が義教の側室となり、義勝・義政を生んだ。 兄・義資は義教の勘気を受け閉門、殺害された。
義教室 三条 尹子 生没年不詳 三条実雅の姉妹。はじめ側室。最初の正室・宗子の死後、正室に上げられた。子女はなし。 義教死後は将軍義勝の生母・日野重子の勢力に押される。
義政室 日野 富子 1440〜1496
義尚室
祥雲院
生没年不詳 左大臣・日野勝光の娘。結婚時既に父は没しており、叔母富子の周旋によったと思われる。 義尚は病弱だが大酒の上、女性関係が激しかった。子女はなし。日野宗家出身の最後の正室。
義澄室
安養院
生没年不詳 日野永俊の娘。日野富子の姪。子女の有無は不詳。
義晴室
慶寿院
1514〜1565 関白近衛尚通の娘。1534年義晴と婚儀。13代将軍義輝・15代将軍義昭を生んだ。 義輝が松永久秀に攻め滅ぼされた時、ともに没する。
5代義量(享年19才)・7代義勝(享年10才)は正室なし。10代義稙(義材)・13代義輝・14代義栄・15代義昭については不詳。 政局不安定の為、正室不在か?

足利将軍家の正室には日野家の女性が多い。 しかし、これは慣例的にそうだったというより、結果的にそうなったという方が正しいような気がします。

初代尊氏の正室は北条氏の支流、赤橋氏の娘。2代義詮の正室は足利氏の支流、渋川氏の娘。 初期の二人の正室はともに武家の出でした。

それが、3代義満になると、公家日野家の娘を迎えます。 自身法皇の位を狙っていたと目されている義満は、早くより朝廷における実力を固めていました。 北朝が持明院統だった頃より近侍していた日野家では、当時日野宣子が後光厳・後円融に仕えて二位の典侍となっており、宮廷の実力者であったようです。 その姪の業子を義満は正室として、新造した室町御所に迎えます。 業子には男子は生まれず、一女も早世しましたが、正室の地位に代わりは無かったようです。
業子の死後は、側室に多くの男子が生まれて妻を新たに迎える必要はなかったに関らず、業子の姪・康子を迎えました。
この康子が後小松天皇の准母となり、女院号を賜わって北山院と号しました。これにより義満の格が上がるとともに、康子の実家・日野家裏松流の家格も上がることになりました。

次の将軍・義持は側室の子で、日野家の女性を母としませんが、康子の妹・栄子を正室としました。 嫡子義量誕生は義満の生存中の事で、栄子を正室に迎えたのも義満の周旋かもしれません。
義量は5代将軍となりますが、病弱で妻子の無いまま19才で死没。 父の義持には他に男子がなく、後継者も指名しないまま3年後に没。
仕方なしに、石清水八幡宮前にて義持の弟4人によるくじ引きが行なわれ、当選したのが6代将軍・義教です。 足利義満以降は、家督争いを避ける為嫡子以外の男子を出家させるという慣例があったため、義教も当選の際は僧形でした。 還俗して、さらに元服式を行い、将軍宣下を受けました。この還俗・元服の年のうちに、日野宗子を妻としました。
義教が日野家の娘を妻としたのは、おそらく、当時将軍家の「皇太后」ともいうべき立場にあった、先の将軍の正室にして前将軍の母である日野栄子を考慮してのことでしょう。 この時、まだ栄子は存命中でした。 くじ引きで選ばれた事による非正嫡論を取り払う為には、先の将軍御台所・生母の好感を得ておくに越したことはありません。

義教はどういう訳か、御台所宗子の妹、重子を側室にし、長男千茶也丸(義勝)をもうけました。 いささか理解に苦しみますが、宗子には子女がなかったので、日野家側で手回ししたことかもしれません。

しかしながら、世の中そんなに上手く行かないというか何というか、恐怖政治と言われるほど強硬路線の政治をとった義教には、これにより予想される日野家の横暴が気に入らなかったのでしょう。 重子が将軍の長男を産んだ年の6月、宗子・重子の兄である日野義資は、所領を没収、閉門の上、誅殺されました。
さらに宗子の死後、日野家筋ではない、三条尹子を正室としました。
さしもの日野家も、これで衰えるかに見えました。

しかし、義教が暗殺され、8才の幼い嫡子・義勝が将軍位を次ぐと、その生母日野重子が勢力を持ちました。
義勝は10才で没しましたが、その後を次いだのは同母弟の義政で、重子の勢力に代わりはありません。
失った栄華を取り戻す為にも、自分の勢力を確固たるものとするにも、重子は実家の日野家を盛り立てることに力を注ぎました。 その集大成というべきなのが、義政の正室に、誅殺された兄・義資の孫娘、富子を迎えることでした。

のちに富子が義尚を生み、既に後継者と定められた義視 と対立することになりますが、富子としてみれば、正室が男子を生んだに関らず、嫡子と 認められないのは、「正室」の意義や地位を覆すことでした。
将軍家御台所としてどうあるべきか、幼い頃より、大叔母の重子や11才上の兄勝光に教え込まれただろう 富子。
所生の男子が庶子のように扱われるとは、許せない思いだったでしょう。

足利将軍家は、後継争いを避けるとの名目上、嫡子以外の男子は出家し、 女子も有力大名等と縁組みされることはなかったようです。
富子が義尚の前に生んだ長女・次女も、また義尚の後に生まれた末子義覚も同様でした。 富子にとって、期待をかけられるのは嫡子・義尚しかいませんでした。 それがなおの事、富子母子の密着度を強めたのでしょう。 義尚のために、それが将軍御台所としての権威を守ることでもあり、 彼女自身の誇りの為であったと思われます。