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皇后:間人皇女【はしひと】..? 〜665 父:舒明天皇 母:皇極・斉明天皇(茅渟王の女) (同母兄)天智天皇・(同母弟)天武天皇 [夫との血縁関係]:叔父(3親等)・・・母皇極・斉明帝の弟
645.. 大化の改新、孝徳天皇(49才)即位(6月)、皇后に冊立される(7月2日) 653.. 兄中大兄皇子・母皇極上皇・弟大海人皇子とともに飛鳥河辺の行宮に移る 654.. 孝徳天皇の病を見舞う(10月)、孝徳天皇(59才)没 655.. 孝徳天皇を大阪磯長陵に葬り、即日飛鳥に帰る 661.. 母・斉明天皇没 665.. 崩御〔2月25日〕 (母皇極天皇とともに小市岡上陵に葬られる) 645年、孝徳天皇の即位の翌月に立后。実の叔父にあたる孝徳天皇は49才。兄の中大兄皇子(天智天皇)はこの年21才でしたので、間人皇女と夫天皇の年齢差は30才ほどあったと思われます。 953年、飛鳥への遷都を巡り孝徳天皇と衝突した中大兄皇子は、天皇を難波に残して飛鳥に移りました。このとき、皇后・間人皇女、皇祖母尊(皇極天皇)らもともに移りました。 これを恨んだ天皇は、「鉗(かなき)着け吾が飼ふ駒は引き出せず 吾が飼ふ駒を人見つらむか」と詠んで皇后に贈りました。当時、「見る」という言葉は男女が相会う意を示す場合があるので、この歌は間人皇后に対する深い懸念・不安を表しているともいいます。 翌年10月、天皇が病んだため諸官とともに難波宮に帰りましたが、天皇はそのまま没しました。 その10年後、665年(天智天皇四年)2月、間人大后は崩御。享年は40才足らずか。翌3月1日に大后のために、三三〇人が出家得度。母の皇極(斉明)天皇と合葬され、小市岡上陵に葬られました。 なお、万葉集に登場する「中皇命」について、これを皇極天皇とみるほか、詞書に間人老に命じて献上したとあることから間人皇女とみる説もあります。その場合、「中皇命」の名称は、斉明天皇の崩御より死去までの4年間に在位し、天智天皇即位前の中継ぎの天皇という意味であるとされます。 |
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妃:阿倍 小足媛【おたらしひめ】.. 生没年不詳 .<男足媛> 父:左大臣 阿倍倉梯麻呂
644.. 軽皇子(孝徳天皇)の宮に泊する中臣鎌子(鎌足)の世話を任せられる 645.. 大化の改新、孝徳天皇(49才)即位(6月)、妃となる(7月)
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妃:蘇我 乳娘【ちのいらつめ】.. 生没年不詳 父:右大臣 蘇我倉山田石川麻呂
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