円融天皇后妃

中宮:藤原 こうし..947〜979
<号:堀河中宮>
父:関白 藤原兼通
母:昭子女王(有明親王の女)
[夫との血縁関係]:従弟(4親等)・・・兼通の姉、安子の子
    972(26才) 父・兼通、関白に就任(11月)
    973(27才) 円融天皇(15才)に入内〈局:麗景殿〉(2月29日)、女御宣下(4月)
    ....... 中宮に冊立(7月1日)
    976(30才) 内裏焼亡(5月)、堀河院に移る
    977(31才) 内裏新造なる(7月)、父・兼通没(10月)
    979(33才) 堀河院において崩御〔6月3日〕
    (宇治木幡の宇治陵に葬られる)
宮廷での女官:馬内侍(歌人)

*藤原兼通の長女。母は従二位昭子女王(有明親王女、または元平親王女ともいわれる)。
『大鏡』によると、幼少の頃は父から世間並みの鍾愛を受けなかったが、他に年長の女子がなかっため、入内させることになったという。
973年2月、27才で入内。円融天皇は15才。女御となった後、7月中宮に立てられました。兼通邸・堀河院に因み、堀河中宮と称す。
子女に恵まれず、また4年後には父・兼通が没し、また自身も立后より6年後、33才で崩御。
『続古今集』『続後拾遺集』『新拾遺集』などに和歌が見える他、円融天皇の追悼歌が伝えられます。

中宮:藤原 遵子..957〜1017
<号:弘徽殿女御・四条宮・三条太皇太后>
父:関白太政大臣 藤原頼忠
母:厳子女王(中務卿 代明親王の女)
(同母弟)大納言公任・(同母妹)花山天皇女御ィ子
[夫との血縁関係]:母の従弟(5親等)・・・母厳子の父、代明親王の弟、村上帝の子
    977(21才) 父・頼忠、関白となる(10月)
    978(22才) 円融天皇(20才)に入内〈局:弘徽殿〉(4月10日)
    ....... 女御宣下(5月22日)
    982(26才) 中宮に冊立(3月11日)
    984(28才) 円融天皇(26才)退位
    989(33才) 父・頼忠没
    990(34才) 皇后宮となる(10月)
    991(35才) 円融法皇(33才)没
    997(41才) 出家する(3月)
    1000(44才) 皇太后となる(2月)
    1012(56才) 太皇太后となる(2月)
    1017(61才) 崩御〔6月1日〕
    (宇治木幡の宇治陵に葬られる)
    (養女)藤原公任二女
宮廷での女官:四条宮主殿(主殿、歌人)

*藤原頼忠の長女。母は正三位厳子女王。藤原公任の同母姉。
22才のとき入内。天皇は2才下の20才。翌月女御となる。弘徽殿を局とし、弘徽殿女御と称されました。
979年に先立の中宮が崩じたため、関白の娘である女御遵子と、翌年に皇子を生んだ女御詮子の間で立后が争われ、982年に遵子が中宮となりました。 このことを詮子の父・兼家は深く恨んだといいます。
しかし遵子は皇子女に恵まれず、のちに「素腹の后」と世評をうけました。
天皇譲位ののちは、里邸四条第(四条南、西洞院東)に妹ィ子や弟公任夫婦らとともに住み、公任の二女を養女としました。四条宮とも称されます。 990年皇后宮。1000年皇太后。1012年太皇太后となる。
41才のとき増賀を導師として出家。61才で崩御し、宇治木幡に葬られました。

[皇太后]:藤原 詮子..962〜1001
<東三条院、号:梅壺女御(女御時代)>
父:摂政太政大臣 藤原兼家
母:藤原 時姫(摂津守 藤原中正の女)
(同母兄)関白道隆・関白道兼(同母弟)摂政道長・(同母姉)贈皇太后超子
[夫との血縁関係]:従兄(4親等)・・・兼家の姉、安子の子
    978(17才) 円融天皇(20才)に入内〈局:梅壺〉(8月17日)、女御宣下(11月)
    980(19才) 従四位下(1月)、東三条殿にて皇子(一条天皇)誕生(3月)
    984(23才) 円融天皇(26才)退位、懐仁親王(一条天皇・5才)立太子
    986(25才) 正三位(3月)、一条天皇(7才)即位、皇太后となる(7月)
    987(26才) 母・時姫に正一位が追贈される(2月)
    990(29才) 父・兼家没(5月)
    991(30才) 円融上皇(33才)没(2月)、出家、女院(東三条院)となる(9月16日)
    999(38才) 慈徳寺を建立、落慶供養
    1001(40才) 石山寺に参詣(9月)、剃髪(閏12月16日)
    ....... 院別当・藤原行成第において崩御〔閏12月22日〕
    (鳥戸野において火葬、宇治木幡の宇治陵に葬られる)
  • 所生の皇子女
    980〜 1011..懐仁(一条天皇;在位986〜1011)
    (養女)びしないしんのう(一条天皇皇女)
*藤原兼家の二女。母は贈正一位藤原時姫。同母兄弟に道隆・道兼・道長がいます。
978年8月、17才のとき、3才年上の円融天皇に入内。11月女御となる。梅壺を曹司とし、梅壺女御と称されました。
2年後皇子(一条天皇)を生む。兼家は詮子が皇子を生んだので中宮に冊立されることを期待しましたが、関白頼忠の女・遵子が立后したため、憤懣やるかたなく、門を閉じ、子息らをも世に交わらせず、詮子が宮中に召されても辞退させたといいます。
しかし円融天皇には他に子が生まれず、皇子・懐仁親王は円融天皇譲位に伴い、花山天皇の皇太子となりました。
986年、一条天皇が即位するにいたって立后し、皇太后。父の兼家は、外祖父として摂政となり権勢を得ました。
病を得て991年、出家落飾。このとき皇太后宮職を廃止し、太上天皇に準じて院号を称しました。兼家の居邸東三条殿にちなみ東三条院という。これが女院のはじめとなります。
1001年、病重きにいたり法橋覚雲を戒師とし剃髪。ほどなく東三条院別当である藤原行成第において崩御しました。ときに40才。
4才下の弟・道長を可愛がり、道長と甥・伊周が関白を争った際には、「夜の御殿に入らせ給ひて、泣く泣く申させ給ふ」(『大鏡』)という行動に出て一条天皇を説得しました。 その結果、道長は内覧に就任し、道長の政権樹立に果たした役割は大きいものでした。
崩じる年、道長邸・土御門殿にて女院の四十賀が催され、一条天皇・中宮彰子ともに臨席し、道長家打ち揃っての盛大な歓待を受けた様子がうかがえます。

妃:尊子内親王..966〜985
<号:承香殿女御・火の宮>
父:冷泉天皇
母:贈皇太后 藤原懐子(関白 藤原伊尹の女)
(同母弟)花山天皇・(異母弟)三条天皇
[夫との血縁関係]:叔父(3親等)・・・父冷泉帝の弟
    967(2才) 父・冷泉天皇即位(4月)、内親王宣下(9月)
    968(3才) 斎院に卜定される(7月1日)、初斎院(左近衛府)に入る(12月)
    969(4才) 父・冷泉天皇退位、円融天皇即位
    970(5才) 紫野斎院に入る(4月)
    975(10才) 母・懐子没、斎院を退下(4月)
    978(13才) 四品に叙される
    980(15才) 円融天皇(22才)に入内〈局:承香殿〉(10月20日)
    ....... 大内裏の諸殿舎ことごとく焼亡(11月)
    981(16才) 二品に叙される
    982(17才) 隠密に自ら髪を切り、落飾(4月)
    984(19才) 円融天皇(26才)退位、弟・花山天皇即位(10月)
    ....... 源為憲より「三宝絵(三宝絵詞)」が撰進される(11月)
    985(20才) 受戒(4月)、薨去〔5月2日〕
*冷泉天皇の第二皇女。母は藤原懐子。花山天皇の同母姉。
父・冷泉天皇の即位により内親王となり、翌年、3才で賀茂斎王に卜定されました。円融天皇即位後も引き続き在任し、5才となった970年、紫野の斎院に入りました。 975年、母の懐子の死去により斎院を退下。在任は8年。
980年10月入内し、麗景殿に参候、15才で円融天皇の妃となりました。のち承香殿に移り、承香殿女御と称されました。
しかし、入内後ほどなく内裏が大火に会い、「火の宮」とも称されました。
17才となった982年、4月2日叔父の藤原光昭が没。 この数日後、『小右記』4月9日条に「伝聞」として、昨夜二品内親王承香殿女御が密々に自ら髪を切ったこと、これは年来の本意とも邪気のいたすところともいう、との風説を記しています。
2年後円融天皇が退位し、弟である花山天皇が即位。同年、若くして出家した内親王のために、源為憲より『三宝絵』が作られました。 その序文によると「春の花皃(かた)ちを恥、寒き松音を譲り、九重の宮に撰(えらば)れ入りしかど、五の濁りの世を厭ひ離給へり」、容貌麗しく美しい声を持ち、入内して宮中に入るも、世を厭い仏に帰依したと語られています。
翌年受戒ののち、20才で薨去。

更衣:(中将御息所)..生没年不詳
父:大納言 藤原懐忠

*中将御息所と称される。
のちに摂政・藤原兼家の妾妻となるも、あまり愛されず。

更衣:(少将更衣)..生没年不詳

*少将更衣と称される。『拾遺集』に詠歌が残る。