後一条天皇后妃

中宮:藤原 威子..999〜1036
<号:藤壺・大中宮>
父:摂政太政大臣 藤原道長
母:源 倫子(左大臣 源雅信の女)
(同母兄)関白頼通・関白教通・(同母姉)上東門院彰子・三条后妍子
[夫との血縁関係]:甥(3親等)・・・姉彰子の子
    1012(14才) 尚侍に任官(8月21日)、裳着(10月20日)、従三位(11月)
    1013(15才) 従二位に昇叙(9月16日)
    1017(19才) 御匣殿別当を兼任
    1018(20才) 後一条天皇(11才)に入内〈局:藤壺〉(3月)、女御宣下(4月)
    ........中宮に冊立(10月16日)
    1027(29才) 父・道長没(12月)
    1034(36才) 皇子誕生を鹿島、香取両神宮に祈請(8月)
    1036(38才) 後一条天皇没(4月)、鷹司殿に退出
    ........出家(9月3日)、崩御(死因:疱瘡)〔9月6日〕
    (園城寺北の桜本にて火葬、宇治木幡の宇治陵に葬られる)
*藤原道長の三女。母は源倫子。天皇の叔母に当たります。
 14才で姉・妍子のあとを受け尚侍となりました。ときに正四位下。1017年には御匣殿別当を兼ねる。
 翌年、後一条天皇の元服を待って、20才で入内。女御となりました。10月に中宮に冊立。 立后の折、一家三后を成し遂げた道長が「この世をば我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思えば」と詠ったことが記されています。
 天皇は他に女御・更衣を納れず、後宮を独占し、大中宮と称されました。
 後一条天皇の没後から半年も経たない9月6日、疱瘡を患い崩御。