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中宮:章子内親王..1026〜1105 .<二条院> 父:後一条天皇 母:中宮 藤原威子(摂政 藤原道長の女) (同母妹)後三条中宮馨子 [夫との血縁関係]:従兄(4親等)・・・父後一条帝の弟、後朱雀の子・母威子の妹、嬉子の子
1027(2才) 内親王宣下(2月11日) 1030(5才) 袴着(腰結役:後一条天皇)、准三后・一品となる(11月20日) 1036(11才) 父・後一条天皇没(4月)、母・威子没(9月) 1037(12才) 裳着の儀(腰結役:藤原頼通)(12月13日) ........東宮親仁親王(後冷泉天皇・13才)に入内<局:藤壷、後に宣耀殿> 1045(20才) 後冷泉天皇践祚(1月) 1046(21才) 中宮に冊立(7月10日) 1068(43才) 皇太后となる(4月17日)、後冷泉天皇(44才)没(19日) 1069(44才) 出家(3月)、太皇太后となる(7月3日) 1074(49才) 女院(二条院)となる(6月16日)、祖母・藤原彰子没(10月) 1088(63才) 菩提樹院に御堂を建立・供養(8月) 1105(80才) 菩提樹院において崩御〔9月17日〕 (愛宕郡神楽岡の菩提樹院陵に葬られる) 1026年12月10日未二剋(午後二時頃)、左衛門督藤原兼隆の大炊御門第にて誕生。翌年内親王となる。 5才のとき、袴着の儀が内裏の飛香舎(藤壺)にて行われ、父天皇自ら腰を結びました。この日、本封の他に一〇〇〇戸を加えられ、三宮に准じて年官年爵を賜り、一品に叙されました。 后腹の第一女として、男子の生まれなかった天皇より深い鍾愛を受けて育ちました。 11才のとき、父後一条天皇が崩御。同年うち続いて母威子も崩じ、以後は祖母・上東門院彰子の後見を受けました。 翌年12月、裳着を終えた直後に、1才年上の東宮親仁親王(後冷泉天皇)の御息所となりました。 後冷泉天皇即位の翌年、中宮に冊立。京極殿にて立后の儀を行いました。 そののち藤原寛子の立后がありましたが、先立の后・章子内親王が中宮職のままであったのは内親王の希望によるものであったようです。 中宮は「あてに気高く」(高貴で気高く)、おっとりした性格であったらしく、後に入内した后妃を気に止めるふうでもなかったという。初めに入内した后であり、また上東門院の後見もあったため、天皇からも重んじた扱いを受けました。 1068年藤原歓子の立后により三后並立となり、皇太后宮職を付される。同月後冷泉天皇崩御。翌年落飾し、また太皇太后となりました。49才のとき女院号を賜り、二条院と号す。 晩年は、父・後一条天皇御陵に菩提樹院を建て、仏道に過ごしました。80才で崩御。菩提樹院に葬られました。 |
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皇后宮:藤原 寛子..1036〜1127 .<号:四条宮・四条后> 父:関白 藤原頼通 母:源 祗子(具平親王の女? 因幡守藤原頼成の女?) (同母弟)関白師実 [夫との血縁関係]:従兄(4親等)・・・父頼通の妹、嬉子の子
1051(16才) 皇后宮に冊立(2月13日) 1053(18才) 母・祗子没(5月) 1056(21才) 「皇后宮寛子春秋歌合」を催す〔4月30日〕 1066(31才) 歌合を催す 1068(33才) 中宮となる(4月17日)、後冷泉天皇(44才)没(19日)、出家(12月) 1069(34才) 皇太后となる(7月3日) 1074(39才) 父・頼通没(2月)、太皇太后となる(6月20日) 1089(54才) 「庚申太皇太后宮寛子扇歌合」を催す 1127(92才) 宇治別宅において崩御〔8月14日〕 (宇治木幡の宇治陵に葬られる)
*関白藤原頼通の女。母は源祗子。師実の同母姉。 |
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皇后宮:藤原 歓子..1021〜1102 .<号:小野皇太后> 父:関白 藤原教通 母:(大納言 藤原公任の女) (同母兄)太政大臣信長・(同母姉)後朱雀女御生子・尚侍真子 [夫との血縁関係]:従弟(4親等)・・・父教通の妹、嬉子の子
1047(27才) 後冷泉天皇(23才)に入内(10月14日) 1048(28才) 女御宣下(7月10日) 1049(29才) 皇子を生むが即日夭折する(3月14日) 1051(31才) 准三后宣下、この頃、小野に閑居する 1068(48才) 父・教通、関白となる(4月16日) ........皇后宮となる(4月17日)、後冷泉天皇(44才)没(19日) 1074(54才) 皇太后となる(6月)、出家(8月) 1075(55才) 父・教通没 1091(71才) 白河上皇の小野雪見御幸〔10月27日〕 1102(82才) 崩御〔8月17日〕 (宇治木幡の宇治陵に葬られる)
風情のある佳人で、情をたたえた魅力があり、ふくよかに小柄な姿だったという。また、たしなみ深く琵琶や唐絵に巧みでした。 1047年、27才で23才の後冷泉天皇に入内。翌年女御の宣旨を受けました。 入内から1年半程後の1049年3月、皇子を出産しましたが夭折したため、里邸の二条・東洞院邸にこもりがちとなりました。1051年頃からは、異母兄・法印静円の住む小野に籠居し、同年准三后となりました。 1068年4月、後冷泉天皇の崩御直前に天皇の意思により立后し、皇后宮職を付されました。2日後、後冷泉天皇は崩御。翌年6月に皇太后。 その年の8月に出家し、引き続き小野に住み小野皇太后と称され、小野山荘を常寿院と改め、深く仏教に帰依した余生を送りました。 1091年10月、雪見のために歓子の小野山荘を訪ねた白河上皇に対し、質素な暮らしながらに機知を凝らした饗応で迎え、その心ばせに感じた上皇より美濃御荘の券を贈られました。藤原宗忠は「所謂賢女歟」と『中右記』に評しています。 小野山荘にて崩御。ときに82才。 |
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