一条天皇后妃

皇后宮:藤原 定子..976〜1000
父:関白左大臣 藤原道隆
母:高階 貴子(式部大輔 高階成忠の女)
(同母兄)内大臣伊周・(同母弟)中納言隆家
[夫との血縁関係]:従弟(4親等)・・・父道隆の妹、詮子の子
    990(15才) 一条天皇(11才)に入内〈局:登華殿〉(1月25日)、女御、従四位下(2月)
    ....... 中宮に立てられる(10月5日)
    994(19才) 積善寺供養(2月)
    995(20才) 妹・原子登華殿を訪れる(1月)、父・道隆没(4月)
    996(21才) 兄弟伊周・隆家左遷(長徳の変)
    ....... 内裏を退出し二条第に還御する(4月)、出家(5月2日)
    ....... 二条第焼亡(6月)、母・貴子没(10月)
    997(22才) 伊周と隆家に召還の宣旨下る(4月5日)
    ....... 脩子内親王とともに参内(6月22日)
    1000(25才) 皇后宮となる(2月)
    ........ 平生昌邸において崩御(死因:難産)〔12月16日〕
    (愛宕郡鳥辺野に土葬される)
  • 所生の皇子女
    996〜1049.. 脩子内親王
    999〜1018.. 敦康親王
    1000〜1008..びしないしんのう
宮廷での女官:清少納言(少納言、「枕草子」の作者・歌人)

*関白藤原道隆の長女。母は高階貴子。
15才の時、元服から間もない一条天皇に入内し、翌月女御宣下。父・道隆が関白となった後、中宮に冊立されました。 この立后の際、円融天皇の皇后遵子の中宮職を改めて皇后宮職とし、定子に中宮職を置きました。 藤原実資は「皇后四人例、往古不聞事也」と記しています。
995年、妹の原子が東宮に参入しますが、この頃が中関白道隆家の最盛期で、その様子は女房である清少納言の『枕草子』に描かれ、とりわけ前年の積善寺供養、原子が入侍した月の登華殿の団欒に象徴的に描き出されています。
しかし同年4月に父・道隆が没し、さらに翌年、兄弟の伊周・隆家が花山法皇を射るという事件を起こし、左遷されたことによって、一家の凋落は決定的になりました。 内裏を退出し、同年5月に落飾。翌月里邸・二条第が焼亡し、高階明順の邸に移りました。脩子内親王を生んだ後に還俗したようで、翌年6月に再び入内。2年後敦康親王を生む。
25才のとき、新たに藤原彰子が立后するにあたり、中宮職を改め皇后宮職とし、皇后宮と号されました。その上で彰子に中宮職を置いて中宮と号し、一帝のもとで中宮・皇后宮の二人の皇后が並び立つ、二后並立のはじめとなりました。
同年12月15日、皇女を出産しましたが、難産により翌16日に崩御。27日送葬。鳥辺野に葬られました。
歌人として優れ、「夜もすがら契りし事を忘れずは こひむ涙の色ぞゆかしき」(後拾遺集)は小倉百人一首の原撰本『百人秀歌』に採られています。
才高き定子は清少納言に景仰され、“今めかしくおかしき”宮廷の様子は『枕草子』に活写されています。 清少納言をはじめ、中納言・宰相などの才媛が集められ、折々の行事に機知を凝らし、公卿らとの応対に風雅が競われました。 道隆や定子の性格を反映して、宮廷は花々しくおおらかで、当世風を追求する風潮でした。

中宮:藤原 彰子..988〜1074
<上東門院, 号:東北院・大女院,法名:清浄覚>
父:摂政太政大臣 藤原道長
母:源倫子(左大臣 源雅信の女)
(同母弟)関白頼通・関白教通・(同母妹)三条后妍子・後一条后威子
[夫との血縁関係]:従兄(4親等)・・・父道長の姉、詮子の子
    995(8才) 父・道長に内覧の宣旨が下る
    999(12才) 裳着、従三位に叙される(2月11日)
    ....... 一条天皇(20才)に入内(11月1日)、女御宣下
    1000(13才) 中宮に立てられる(2月25日)、新造内裏に遷御〈局:藤壷〉(10月)
    1008(21才) 土御門殿にて皇子(後一条天皇)誕生(9月)
    1011(24才) 一条天皇退位・没(32才)、敦成親王(後一条天皇・4才)立太子(6月)
    1012(25才) 皇太后となる(10月)
    1014(27才) 円教寺での一条天皇の周忌法要に出席(5月27日)
    1016(29才) 後一条天皇(9才)即位する
    1017(30才) 敦良親王(後朱雀天皇・9才)立太子
    1018(31才) 太皇太后となる(10月)
    1026(39才) 出家、女院(上東門院)となる(1月)
    1027(40才) 父・道長没
    1030(41才) 法成寺東北院を建立
    1032(45才) 「上東門院菊合」を催す
    1036(49才) 後一条天皇没、後朱雀天皇即位
    1045(58才) 後朱雀天皇没、後冷泉天皇即位
    1053(66才) 母・倫子没
    1068(81才) 後三条天皇即位
    1072(85才) 白河天皇即位
    1074(87才) 崩御〔10月2日〕
    (大谷本院にて火葬、宇治木幡の宇治陵に葬られる)
  • 所生の皇子女
    1008〜1036.. 敦成(後一条天皇;在位1016〜1036)
    1009〜1045.. 敦良(後朱雀天皇;在位1036〜1045)
    (養子)敦康親王(一条天皇皇子・生母定子)
宮廷での女官:紫式部(「源氏物語」「紫式部日記」の作者・歌人)・赤染衛門(歌人)・伊勢大輔(歌人)・
......... 和泉式部(「和泉式部日記」の作者・歌人)

*藤原道長の長女。母は源倫子。同母弟に頼通・教通、妹に妍子・威子・嬉子がいます。
12才で8才年上の一条天皇に入内。女御となりました。翌年2月に立后。先立の后・定子の中宮職を改め皇后宮職とし、新たに中宮職を置いて中宮と称しました。二后並立の初めです。 当時内覧であった父・道長の後押しのもと、その宮廷は華々しく、多くの才女が女房として集められ、とりわけ源氏物語の作者・紫式部が伺候し、その宮廷生活の中で物語を執筆していったことは名高い。
1008年、21才のとき、土御門邸で第二皇子(敦成・後一条天皇)を生む。 その前年、父・道長は子守三所のといわれる金峯山に詣でました。修験姿で登り、金筒を埋めるという厳粛なものであり、この功で皇子が誕生したと大層喜んだといいます。 翌年、敦良親王(後朱雀天皇)を生む。
24才のとき、一条天皇が譲位の後に崩御。次の三条天皇の皇太子として、所生の敦成親王が立太子しました。 彰子は第一皇子敦康親王の母后定子亡き後の母代となり、親王を大層可愛がっていたため、この皇太子選定の際、敦康親王を推したと伝わります。 翌年皇太后となる。
さらに1017年、敦明親王の皇太子辞退により、二男・敦良親王(後朱雀天皇)が立太子しました。1018年太皇太后。
39才で出家し、女院となり上東門院と号しました。翌1027年、父・道長が没。
二帝の国母として強い権限を持ち、弟の頼通・教通とともに、摂関政治の最盛期を生み出しました。 道長に対しては反発的であった藤原実資らともよく協調し、『小右記』に「賢后」と記されています。
法成寺内に東北院を建立し、晩年はここに住みました。これにちなみ「東北院」とも号す。
晩年に後三条天皇が即位し、摂関家の勢力に陰りが落ちましたが、天皇の祖母に当たる上東門院は依然重きをなし、新立の陽明門院らに対して「大女院」と称されました。
白河天皇即位の翌々年、1074年10月に崩御。その前後、同年に弟・前関白頼通没し、翌年にはもう一人の弟・関白教通も没しました。 白河天皇の在位の初めに摂関政治の最盛期を担った姉弟が相次いで没したことは、院政期へと移行する節目となりました。

女御:藤原 義子..974〜1053
<号:弘徽殿女御>
父:太政大臣 藤原公季
母:(兵部卿 有明親王の女)
[夫との血縁関係]:従兄の子(5親等)・・・父公季の姉、安子の子、円融帝の子
    996(23才) 一条天皇(17才)に入内〈局:弘徽殿〉(7月20日)、女御宣下(8月)
    997(24才) 父・公季、内大臣となる
    1000(27才) 従三位に叙される
    1004(31才) 父・公季、右大臣となる
    1005(32才) 正三位に昇叙(1月10日)、従二位に昇叙(1月13日)
    1011(38才) 一条天皇退位・没(32才)
    1014(41才) 円教寺での一条天皇の周忌法要に出席(5月27日)
    1024(51才) 出家する
    1029(56才) 父・公季没
    1053(80才) 薨去〔閏7月〕
*藤原公季の女。母は有明親王女。
23才で5才年下の一条天皇に入内。弘徽殿を曹司とし「弘徽殿女御」と称されました。 さほどに寵愛を被らなかったという。皇子女はなし。
51才で出家し、80才で薨去。

女御:藤原 元子.. 生没年不詳
<号:承香殿女御>
父:右大臣 藤原顕光
母:盛子内親王(村上天皇の女)
(同母妹)小一条院妃 延子
[夫との血縁関係]:従兄弟(4親等)・・・母盛子の兄弟、円融帝の子
    996.. 父・顕光、右大臣となる
    .....一条天皇(17才)に入内〈局:承香殿〉(11月14日)、女御宣下(12月)
    998.. この頃、腹張し水を産む
    1000.. 従三位に叙される(8月)
    1005.. 従二位に昇叙(1月)
    1011.. 一条天皇退位・没(32才)
    1012.. 参議源頼定と私通し、父・顕光に勘当される(10月)
    1014.. 円教寺での一条天皇の周忌法要に出席(5月27日)
    1021.. 源頼定没(6月)
    1021.. 父・顕光没(5月)
  • 所生の子女
    (父:源頼定).. 二女
*藤原顕光の長女。母は盛子内親王。「承香殿女御」と称されました。
996年に入内。翌月女御となる。同時期に入内した女御義子・尊子よりは寵せられたという。
腹張を懐妊したとし、父・顕光の堀河邸に里下がりしたが、産み月を過ぎても気配がなく、多量の水を排出して病は癒えた。この事に恥じて宮中に戻らず、里邸に籠もりがちとなりました。
天皇の崩後、源頼定と密かに恋仲となって父・顕光の憤激に遭い、髪を切られましたが、夜陰に紛れて堀河邸を抜け出し、頼定との間に二女をもうけました。

女御:藤原 尊子..984〜1022
<号:暗戸屋女御、前御匣殿女御>
父:関白左大臣 藤原道兼
母:藤原繁子(右大臣 藤原師輔の女・一条天皇乳母)
[夫との血縁関係]:従兄(4親等)・・・父道兼の妹、詮子の子
    995(12才) 父・道兼没
    998(15才) 一条天皇(19才)に入内、御匣殿別当となる、従五位上
    1000(17才) 女御宣下(8月)
    1004(21才) 従四位上に叙される(1月)
    1005(22才) 従三位に昇叙(1月10日)、正三位に昇叙(1月13日)
    1010(27才) 従二位に叙される(1月)
    1011(28才) 一条天皇退位・没(32才)
    1014(30才) 円教寺での一条天皇の周忌法要に出席(5月27日)
    1015(32才) 参議藤原通任と結婚(10月3日)
    1022(39才) 薨去〔12月25日〕
*藤原道兼の女。母は一条天皇の乳母を務めた従三位典侍藤原繁子(藤三位)。
父・道兼は尊子に対し、「何ともおぼさず」(栄花物語)と甚だ冷淡であったといいます。
父の死後、内覧・道長の配慮もあり、15才で御匣殿別当として一条天皇に入内。この時、実際に面倒を見たのは、のち母の繁子と結婚する平惟仲でした。 2年後女御となる。曹司が暗戸屋にあったので「くらべやの女御」と称されました。 従二位まで進む。皇子女はなし。28才のとき一条天皇が崩御。
その後、32才で参議藤原通任の妻となりました。39才で薨去。

宮人:(御匣殿).. 985?〜1002
父:左大臣 藤原道隆
母:高階貴子(式部大輔 高階成忠の女)
(同母姉)一条天皇后定子・(同母兄)内大臣伊周・中納言隆家
[夫との血縁関係]:従兄弟(4親等)・・・父道隆の妹、詮子の子
    993(9才) 姉二人とともに、裳着を行う(2月22日)
    995(11才) 父・道隆没(4月)
    1000(16才) 姉・定子没(12月),この後、遺児の母代として入内
    1002(18才) 懐妊中に死去〔6月3日〕
*藤原道隆の四女。皇后宮定子の同母妹。
御匣殿別当となり、姉の死後、遺児・敦明親王の母代として内裏で生活する内に一条天皇の寵を受け懐妊しましたが、妊娠中に死没。 死去の時、『栄花物語』によると17、8才程であったという。