女御:藤原 .. ? 〜985.<号:弘徽殿女御> 父:太政大臣 藤原為光 母:(右近衛少将 藤原敦敏の女) [夫との血縁関係]:従兄の子(5親等)・・・父為光の姉、安子の孫
985.. 前播磨守共政邸にて死去〔7月18日〕,従四位下を追贈(22日) .天皇即位の年の10月に入内。姉妹に花山天皇の叔父で近臣であった藤原義懐の室となった女性がおり、この縁故によるものか。 局にちなみ、弘徽殿女御と称されました。 .寵愛を一身に集め、「もろもろにまさりていみじう時めき給ふ」(『栄花物語』)といわれました。 .翌年懐妊。天皇の配慮も並大抵でなく、5月には安産の修法を内裏の桂芳房で行い「女御於陣中修法、往古不聞」(『小右記』)と記されています。しかし、出産にいたらず死去。 .花山天皇の在位中に御子を懐妊したただ一人であり、また寵愛並ぶものがなかったため、その死は天皇が出家し譲位する契機となりました。 |
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女御:藤原 ィ子.. ? 〜1035 父:関白太政大臣 藤原頼忠 母:厳子女王(中務卿 代明親王の女) (兄弟)大納言 公任・(姉)円融天皇中宮 遵子 [夫との血縁関係]:従姉の子(5親等)・・・母厳子の姉、恵子の子、懐子の子
986.. 花山天皇退位・出家、一条天皇即位、以後四条宮で暮らす 989.. 父・頼忠没 1008.. 花山法皇(41才)没 1011.. 三条天皇即位 1016.. 後一条天皇即位 1035.. 死去〔6月〕 .天皇即位の年に入内し、藤原姚子と同日に女御宣下を受けました。さほどの寵愛を受けなかったという。 天皇の出家後は、姉・遵子とともに公任の四条宮邸で暮しました。60才を超える長命で死去。 |
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女御:藤原 姚子..971〜989 .<号:堀河女御> 父:大納言 藤原朝光 母:(式部卿 重明親王の女) [夫との血縁関係]:再従兄(6親等)・・・父朝光の父、兼通の妹、安子の孫
986(16才) 花山天皇退位・出家、一条天皇即位 989(19才) 死去〔5月29日〕 .母は重明親王の五女で、のちの村上天皇の寵妃・藤原登子は祖母にあたり、姚子も美麗な女性であったと伝わります。 はじめ盛んに寵愛を受けたが、入内から1ヶ月を過ぎる頃には冷めてしまい、ついに宮を出て里邸に帰り、天皇は再び内裏に参ることを促さなかったという。 |
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女御:婉子女王..972〜998 .<号:堀河女御> 父:式部卿 為平親王 母:(左大臣 源高明の女) [夫との血縁関係]:従兄(4親等)・・・父為平の兄、冷泉帝の子
986(15才) 花山天皇退位・出家、一条天皇即位(6月) ....... この後、藤原実資(30才)と結婚 995(24才) 夫・実資、権中納言となる 996(25才) 夫・実資、中納言となる 998(27才) 死去〔9月17日〕 .985年12月、14才で入内し、女御となりましたが、天皇は翌年6月に出家しました。 .天皇の出家後、藤原実資と結婚し、27才で死没。子女はなし。 実資は婉子女王の周忌日に禅林寺で布五〇端をもって諷誦を修し、女王の父・為平親王は念仏を修しました。 続いて10月実資は女王を改葬し石卒塔婆を造立。忌日には禅林寺の諷誦を固く守りました。このことは実資の日記『小右記』に詳しい。 |
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宮人:藤原 儼子.. ? 〜1016 .<号:四の御方> 父:太政大臣 藤原為光 母:(摂政 藤原伊尹の女) [夫との血縁関係]:従兄(4親等)・・・母の姉、懐子の子
992.. 父・為光没 996.. 藤原伊周・隆家兄弟、花山法皇に矢を放ち、袖を射抜く ..... (従者の童子の首を取るともいう) 1008.. 花山法皇崩御(2月) 1010.. 藤原妍子、東宮居貞親王(三条天皇)に入内 ..... この頃、妍子の女房として出仕するか 1011.. 三条天皇即位 1016.. 死去〔1月〕 .花山天皇出家の契機となった弘徽殿女御"小氏"子の異母妹に当たります。 .父・為光の死後、一条殿にて同母姉・三の君らと過ごしていたところ、花山法皇に想いを掛けられるようになったらしい。 .996年、同居する三の君に通っていた内大臣藤原伊周に誤解され、伊周・隆家の兄弟と花山法皇及び追従との間に乱闘が起こったようです。 この事件等により、伊周・隆家兄弟は左遷されることになりました。 .1008年の花山法皇崩御ののち、藤原道長の二女で三条天皇中宮・藤原妍子に出仕。御匣殿に奉仕しました。 典侍に任じられ、正五位下の位を賜っています。 また、藤原道長の妾妻として正式に遇されました。 .1016年、道長の子(夭折)を生み、産褥により死去。 |
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宮人:(中務).. 生没年不詳 父:若狭守 平祐之 (夫)若狭守平祐忠
998.. この頃、皇子(清仁親王)を生む 1004.. 花山法皇皇子清仁・昭登、冷泉上皇猶子として親王宣下(5月) 1008.. 花山法皇崩御(2月) 1011.. 三条天皇即位(6月) ..... 清仁・昭登親王、元服(8月)
.花山天皇の出家の後も近仕していたところ、日頃より見慣れた仲でしたが、ふと寵愛を受けるようになったといいます。 娘もまた法皇の宮人となりました。 .中務が清仁親王を生み、娘・平子が昭登親王を生んだため、清仁親王は「母腹宮」、昭登親王は「女腹宮」と称されました。 .昭登・清仁親王は花山法皇出家後の誕生のため、祖父冷泉上皇の猶子となり、親王宣下を受けました。 .中務も娘・平子も、ともに寛弘8年(1011)9月には在世(『権記』)。花山院の御匣殿とある。 |
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宮人:平 平子.. 生没年不詳 父:若狭守 平祐忠 母:(若狭守 平祐之の女・中務)
998.. 皇子(昭登親王)を生む 1004.. 花山法皇皇子昭登・清仁、冷泉上皇猶子として親王宣下(5月) 1008.. 花山法皇崩御(2月) 1011.. 三条天皇即位(6月) ..... 昭登・清仁親王、元服(8月)
.母とともに法皇の寵を受けるようになり、昭登親王と皇女二人を生む。 .昭登親王は中務の生んだ清仁親王とともに親王宣下を受けました。 .また『栄花物語』によると、母・中務と平子はそれぞれ二人ずつ皇女を生み、その内三人は父・花山法皇の崩後立て続けに亡くなりましたが、平子の生んだ下の姫だけは大事無かったという。 三人の皇女が亡くなったのは、法皇が崩御の間際に、姫宮達の将来が不安だから自分が死んだ後すぐ連れて行ってしまおう、と言ったためであり、平子の下の姫が助かったのは、この姫が父法皇の命により兵部命婦の子として育てられており、法皇が関知しなかったためだという。 この皇女は、後に皇太后藤原彰子に仕え、1024年12月6日に強盗に殺害されたという花山院皇女と同一人物か。 .母・中務とともに、寛弘8年(1011)9月には在世(『権記』)。 |
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