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妃:藤原 延子.. 985? 〜1019 .<号:堀河女御> 父:左大臣 藤原顕光 母:盛子内親王(村上天皇の女) (同母姉)一条天皇女御 元子 [夫との血縁関係]:従兄の子(5親等)・・・母盛子の兄弟、冷泉帝の孫
1011(27才) 三条天皇即位 1014(30才) 王子(敦貞親王)を生む 1016(32才) 三条天皇退位、後一条天皇即位,敦明親王立太子 ........敦明親王、堀河院より小一条院に移る 1017(33才) 敦明親王皇太子を辞退、小一条院となる ........敦明親王、道長の娘・寛子と結婚(11月) 1019(35才) 死去(喀血して頓死)〔4月9日〕
.1010年の中頃、25、6才で敦明王の妻となりました。8、9才ほど年上でしたが、延子は清げなる佳人で夫婦仲も良く、栄子・敦貞・敦昌の三子を生む。 .姉の一条天皇女御・元子が天皇崩御後に源頼定と密かに通じたことによって、父・顕光は延子とその王子女にひときわ期待を寄せました。 .敦明親王は三条天皇が退位する際、その強い要望で立太子。親王は顕光・延子の邸であった堀河院に同殿していましたが、皇太子となったことにより母后の邸小一条院に移りました。 .しかし、翌年、敦明親王は皇太子を辞退。 加えて、小一条院となった敦明親王は道長の娘・寛子に婿取りされました。 延子はこの婚儀を恨み、悲嘆に沈み病を発し、遂に1019年4月9日の夜、血を吐いて頓死しました。時に35、6才。『小右記』には「心労」と記されています。
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妃:藤原 寛子..999〜1025 .<号:高松殿女御, 提子(御堂関白記)・"女是"子(小右記)> 父:摂政太政大臣 藤原道長 母:源明子(左大臣 源高明の女) (異母兄)関白頼通・関白教通・(同母兄)右大臣頼宗・(異母姉)上東門院彰子 [夫との血縁関係]:従兄の子(5親等)・・・父道長の姉、超子の子、三条帝の子
1013(15才) 従三位に昇叙 1016(18才) 後一条天皇即位、大嘗祭御禊の女御代を務める(8月) 1017(19才) 敦明親王(24才)と結婚(11月22日) 1018(20才) を生む1023(25才) 敦元親王を生む 1025(27才) 薨去〔7月9日〕
.未婚の頃、御匣殿別当となり、後一条天皇即位の年の大嘗祭では女御代を務めました。 .敦明親王が東宮位を辞退し、準太上天皇の位を受けて小一条院となった年に結婚。『栄花物語』によると、この時19才。 寛子は母・明子とともに高松殿を居所とし、高松殿女御と称されました。 .小一条院の婿取りは、先の妻・藤原顕光の娘延子を押しやる形で行なわれ、延子は心労によって没したといわれます。 顕光もその2年後に死没。 死没後顕光は怨霊と化し、延子を伴い道長の子女、とりわけ寛子に取付いて祟り、寛子の早世もそのためと伝えられます。
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妃:(藤原頼宗の女).. 1011?〜1062 .<号:院の上> 父:右大臣 藤原頼宗 母:(内大臣 藤原伊周の女) [夫との血縁関係]:再従兄(6親等)・・・祖父道長の姉、超子の子、三条帝の子
........この後、小一条院敦明親王(32才)と結婚 1026(16才) 王子(基平)を生む 1039(29才) 王子(敦賢親王)を生む 1043(32才) 小一条院,出家する 1051(40才) 小一条院(58才)没 1062(51才) 死去〔6月〕
.叔母(父頼宗の同母妹)寛子の没後に、継室として小一条院に入侍しました。 正妻格であったため、院の上と称されました。
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召人:(瑠璃女御).. ? 〜1089 父:下野守 源政隆 (姉妹)四条宮下野
1051.. 小一条院(58才)没 1068.. 王女、三条天皇の即位式に際し左帳を掲げる 1072.. 王女、白河天皇の即位式に際し左帳を掲げる 1074.. 斉子女王、斎院に卜定される(12月) 1089.. 死去〔2月〕
.はじめ高松殿女御寛子に仕えていましたが、院の寵愛を受け、西院に移り住みました。 .1089年に死去。斉子女王は母の喪により賀茂斎院を退下。
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