近衛天皇后妃

皇后宮:藤原 多子【まさるこ】..1140〜1201
<号:二代の后>
父:右大臣 藤原公能
母:藤原 豪子(権中納言 藤原俊忠の女)
養父:内覧左大臣 藤原頼長・養母:藤原幸子(藤原実能の女・公能の姉妹)
(姉)後白河天皇中宮忻子
[夫との血縁関係]:父の再従弟(7親等)・・・父公能の祖父、公実の妹、苡子の孫
    1142(3才) 真魚始の儀(3月22日)、袴着の儀(8月7日)
    1148(9才) 従三位に叙される(8月)
    1150(11才) 近衛天皇(12才)に入内、女御宣下(1月)、皇后宮に冊立(3月14日)
    1151(12才) 養父頼長、内覧となる(1月)
    1155(16才) 近衛天皇(17才)没(7月)
    1156(17才) 保元の乱、養父頼長敗死(7月)、皇太后となる(10月)
    1158(19才) 太皇太后となる(2月)
    1159(20才) 平治の乱
    1160(21才) 二条天皇(18才)に再入内(1月)
    1161(22才) 父・公能没
    1165(26才) 二条天皇(23才)没(7月)、出家(12月)
    1183(44才) 平家一門、西国に下る
    1192(53才) 鎌倉幕府成立
    1201(62才) 崩御〔12月24日〕
宮廷での女官:小侍従(歌人)

*閑院流・藤原公能の女。叔母幸子が藤原頼長の室となっており、その縁で幼い頃から頼長の邸・大炊御門高倉第で養われました。 多子3才の年に、真魚始、つづいて袴着の儀が頼長邸で行われており、これ以前に養女となったのでしょう。
11才で1才年上の近衛天皇に入内し、ほどなく皇后宮に冊立されました。入内から立后の様子は頼長の日記『台記』の「婚記」に記されています。 多子の命名の経緯にも触れており、中国の『説門』を引用し「多」は「夕」を重ねた字であり、「夫婦の儀、愛を以て先と為す。文は既に夕を重ね、情は同じく夜に専らとす。しかのみならず子孫衆多、后妃の至徳なり」との理由であったという。 また「万佐留」と記され、「まさるこ」と読んだようです。
多子の立后後ほどなくして頼長の兄関白忠通の養女・呈子が入内、中宮に立てられ、頼長と忠通の政権争いのもと二后並立が起こりました。 頼長を偏愛する父忠実は、同年忠通を義絶して氏の長者の座を頼長に与え、頼長は内覧の宣旨を受けました。これに対し忠通は自邸・近衛殿を天皇の御所とし、多子を天皇に近づかせないという方法で対抗しました。
1155年、近衛天皇は17才の若さで崩御。この年多子16才。
翌年に起こった保元の乱により、後見である養父頼長は敗死。その後皇太后、19才で太皇太后となりましたが、京を出て近衛河原に隠棲しました。
多子は天下第一の美人といわれ、筝・琵琶を好みました。
1160年、二条天皇の強い要請で再び入内。「思ひきやうき身ながらにめぐりきて おなじ雲井の月を見むとは」と詠んだと伝わります。 世に二代の后と称されました。
二条天皇の崩後に出家。以後62才まで生きましたが、院号を宣下されることはありませんでした。

中宮:藤原 呈子..1131〜1176
<九条院, 法名:清浄観>
父:太政大臣 藤原伊通
母:藤原立子(権中納言 藤原顕隆の女)
養父:関白 藤原忠通・養母:藤原宗子(権大納言宗通の女・伊通の姉妹)・美福門院得子(伊通の従姉妹)
(義弟)関白基実・関白基房・関白兼実・(義姉)皇嘉門院聖子
[夫との血縁関係]:再従弟(6親等)・・・父伊通の母の兄、長実の娘、得子の子
    1148(18才) 美福門院得子の養女となる
    1150(20才) 関白忠通の養女となり、従三位に叙される(2月)
    ........近衛天皇(12才)に入内、女御宣下(4月21日)、中宮に冊立(6月9日)
    1151(21才) 里内裏・四条洞院殿焼亡(6月)、里内裏・小六条殿焼亡(10月)
    ........忠通の近衛殿が御所となる
    1155(25才) 近衛天皇(17才)没(7月)、出家(8月)
    1156(26才) 保元の乱(7月)、皇后宮となる(10月)
    1158(28才) 皇太后となる(2月)
    1159(29才) 平治の乱
    1168(38才) 女院(九条院)となる(3月)
    1176(46才) 崩御〔9月19日〕
宮廷での女官:常磐御前(源義経母)

*太政大臣藤原伊通の女。母は藤原顕隆の女・立子。
18才のとき、近衛天皇の母・美福門院の養女となる。伊通の母は美福門院の父・長実の姉妹であり、呈子にとって女院は父の従姉妹に当たりました。 2年後、さらに時の関白忠通の養女となり、従三位に叙された後、8才下の近衛天皇に入内。中宮に冊立されました。ときに20才。
これは伊通の姉妹・宗子が忠通の正妻となっていた縁によるものですが、忠通にも縁者である呈子を仲立ちとして、美福門院と忠通の策の合致した結果と見るべきでしょう。
先に養女・多子を入内させていた頼長は 「その入内は大相国張本たり、或いは曰く、美福門院張本たりと。法皇、また之を許し、詐りて大相をして張本となす」 と日記『台記』に記しています。
翌年6月、里内裏であった四条洞院殿が焼亡し、天皇は小六条殿に遷りましたが10月にここも炎上。忠通の近衛殿が御所となりました。 これは結果的には、皇后宮多子を天皇より遠ざける陰謀であったと想定されています。
その翌1152年、呈子に懐妊の兆しが見られましたが、これは想像妊娠であったようです。
結局呈子・多子ともに子女をもうけることなく、1155年7月近衛天皇は17才で崩じたため、翌月出家。
その後皇后宮、皇太后となり、38才で院号を宣下され、九条院と号しました。46才で崩御。