光孝天皇后妃

[皇太后]:班子女王..833〜900
<号:洞院后>
父:式部卿 仲野親王
母:(当宗氏)
[夫との血縁関係]:従兄の子(5親等)・・・父仲野の兄、嵯峨帝の孫
    845(13才) 時康親王(光孝天皇・16才)元服
    853(21才) この頃、時康親王(24才)と結婚か
    854(22才) 長女・忠子女王を生む
    867(35才) 三男・定省王(宇多天皇)を生む
    884(52才) 光孝天皇即位、従三位(2月)、女御宣下(4月)
    887(55才) 従二位(1月)、光孝天皇(58才)没、宇多天皇即位、皇太夫人に冊立(8月)
    892(60才) 常寧殿にて宇多天皇が六十賀を催す(3月)
    ....... 常寧殿にて四内親王が母后の御算を祈る(12月)
    893(61才) 忠子内親王の四十賀を催す
    ....... この頃、「寛平御時后宮歌合」を主催するか
    896(64才) 浄福寺を建立
    897(65才) 宇多天皇退位、班子とともに東三条院に移る、皇太后となる
    898(66才) 宇多上皇朱雀院に移る
    900(68才) 崩御〔4月1日〕
    (葛野郡の頭陀寺の辺に葬られる)
  • 所生の皇子女
    854〜904.. 忠子内親王
    857〜922.. 是忠親王
    ? 〜903.. 是貞親王
    867〜931.. 定省(宇多天皇;在位887〜897)
    ?〜914.. 簡子内親王
    ? 〜925.. 綏子内親王(陽成上皇妃
    ? 〜899.. 為子内親王(醍醐天皇妃
*早くに親王時代の天皇の妻となり、三男四女をもうけました。
天皇即位により女御となり、宇多天皇の即位により皇太夫人となる。この頃、寛平年中に「寛平御時后宮歌合」を催したか。春・夏・秋・冬の歌各二十番、恋歌二十番、あわせて百番の大規模な歌合で、歌合の先駆的なものの一つでした。 なお、主催の「后宮」は藤原温子を指すとの説も有ります。
のち皇太后となり、居所にちなみ洞院后と称されました。
また『大鏡』には、まだ親王妃であった頃住んでいたのは小松殿で、毎日のように市に出向いて買い物をしたという逸話が伝わっています。

女御:藤原 佳美子【かみこ】.. ? 〜898
父:関白太政大臣 藤原基経か
(兄弟)時平・忠平・(姉)清和天皇女御頼子・佳珠子・(妹)宇多天皇女御温子・醍醐天皇后穏子
[夫との血縁関係]:父の従兄弟(5親等)・・・父基経の母、乙春の姉妹、沢子の子
    884.. 女御宣下(6月20日),ときに従四位下
    887.. 正四位下に昇叙(1月)、光孝天皇(58才)没、宇多天皇即位(8月)
    896.. 従三位に昇叙(1月)
    897.. 醍醐天皇即位
    898.. 薨去〔7月28日〕
*系譜未詳。基経女佳珠子との名前の類似から基経の娘ではないかとされています。

女御:平 等子.. 生没年不詳
父:右近衛中将 平好風
    884.. 女御宣下(8月)
    886.. 無位より正五位下に叙位(1月),のち従三位
*光孝天皇には生母の明記されない子女が甚だ多く、親王時代の子女は三十数名に上り、等子も早くより天皇に近侍したと思われますが、所生の子女については不明です。

女御:藤原 元善【もとよし】.. 生没年不詳
父:中納言 藤原山陰
    887.. 女御となる(2月16日)

宮人:(正躬王の女).. 生没年不詳
父:参議 正躬王
[夫との血縁関係]:再従兄弟(6親等)・・・父正躬の父、万多の兄、嵯峨帝の孫
  • 所生の皇子女
    ? 〜903.. 穆子内親王(斎院;在任884〜903)

更衣:(讃岐永直の女).. 生没年不詳
父:大判事 讃岐永直
  • 所生の皇子女
    ? 〜908.. [源]旧鑒

宮人:(多治氏).. 生没年不詳
  • 所生の皇子女
    ? 〜908.. [源]緩子

宮人:(布勢氏).. 生没年不詳
  • 所生の皇子女
    [滋水]清実

更衣:藤原 元子.. 生没年不詳
    885.. 従五位上に叙される(11月27日)

更衣:滋野 直子.. ? 〜915
    887.. 光孝天皇(58才)没、宇多天皇即位
    915.. 卒去〔1月〕、従三位を追贈
*のちに典侍となり、東宮宣旨を兼任。

宮人:菅原 類子..生没年不詳
父:参議 菅原是善
(兄弟)右大臣 菅原道真
    875.. 王女・順子を生む
    884..光孝天皇即位、従五位下に叙される(2月)
  • 所生の皇子女
    875〜899.. [源]順子(藤原忠平室)
*忠平室・源順子は宇多天皇皇女と伝えられるが、生没年から宇多天皇9才の時の子となり実娘とは考えがたい。 そのため、光孝天皇皇女で宇多天皇の養女となったのであり、「菅原の君」と称された事から母は菅原類子だろうと推察されています。