村上天皇后妃

中宮:藤原 安子..927〜964
<号:梨壷女御・藤壷女御(女御時代)>
父:右大臣 藤原師輔
母:藤原 盛子(武蔵守 藤原経邦の女)
(同母兄)摂政伊尹・関白兼通・(同母弟)摂政兼家
[夫との血縁関係]:父の従弟(5親等)・・・師輔の父、忠平の妹、穏子の子
    940(14才) 成明親王(村上天皇・15才)と結婚
    944(18才) 成明親王立太子
    945(19才) 従五位上に叙される
    946(20才) 村上天皇即位、従三位、女御宣下〈局:梨壷、後に藤壷〉
    948(22才) 承子内親王を生む
    950(24才) 皇子(冷泉天皇)を生む、皇子(2ヵ月)立太子
    956(30才) 従二位に叙される
    958(32才) 中宮に冊立(10月27日)
    960(34才) 父・師輔没
    964(38才) 主殿寮にて崩御(死因:難産)〔4月29日〕
    (宇治木幡の宇治陵に葬られる)
    967.. 冷泉天皇即位、皇太后を追贈
    969.. 円融天皇即位、太皇太后を追贈
  • 所生の皇子女
    948〜951 .. 承子内親王
    950〜1011.. 憲平(冷泉天皇;在位967〜969)
    952〜1002.. 為平親王
    953〜992 .. 輔子内親王(斎宮;在任968〜969)
    955〜1015.. 資子内親王
    959〜991 .. 守平(円融天皇;在位969〜984)
    964〜1035.. 選子内親王 (号:大斎院、斎院;在任975〜1031)
*右大臣師輔の長女。 裳着間もなく成明親王の妃となり、婚儀は飛香舎で行なわれました。4年後親王の立太子により東宮妃とり、さらに946年、天皇の即位により女御となりました。 東宮妃の頃より梨壷を局とし、梨壷女御と称され、のちに藤壷女御と称されました。
950年皇子(冷泉天皇)を生む。先に生まれた広平親王を後見の差で超え、生後2ヶ月で立太子。冷泉天皇を含め三男四女を生む。
最も早くに妃となり、また東宮の母であることから、天皇への影響力が強く、いささか嫉妬深いところもあったが、よく後宮を領導したといいます。 長い女御時代を経て、958年、32才で中宮となりました。
964年、4月24日選子内親王を出産しましたが、29日に主殿寮にて崩御。
子供たちの即位を見ることなく没しましたが、二代の母として摂関家隆盛に貢献しました。

女御:藤原 述子..933〜947
<号:弘徽殿女御・四条御息所>
父:関白太政大臣 藤原実頼
母:(左大臣 藤原時平の女)
(兄)関白頼忠・(姉)朱雀天皇女御 慶子
[夫との血縁関係]:父の従弟(5親等)・・・実頼の父、忠平の妹、穏子の子
    946(14才) 村上天皇(21才)に入内(11月)、女御宣下(12月)〈局:弘徽殿〉
    947(15才) 死去(死因:疱瘡)〔10月5日〕、従四位下を追贈
*藤原実頼の三女。村上天皇即位の年の11月に入内し、12月女御となりました。 弘徽殿を局としたため弘徽殿女御、また里邸にちなみ四条御息所と称されました。
翌年懐妊の徴があったが、疱瘡にかかり堕胎やむなくに至り、病回復せずに東三条邸にて死去。時に15才。

女御:徽子女王..929〜985
<号:斎宮女御・承香殿女御>
父:式部卿 重明親王
母:藤原 寛子(関白太政大臣 藤原忠平の女)
(継母)尚侍 藤原登子
[夫との血縁関係]:叔父(3親等)・・・父重明の弟
    936(8才) 伊勢斎宮に卜定される(9月)
    938(10才) 伊勢に群行
    945(17才) 母・寛子没、斎宮を退下(1月)、帰京(8月)
    948(20才) 村上天皇(23才)に入内〈局:承香殿〉(12月)
    949(23才) 女御宣下、規子内親王を生む
    951(25才) 従四位下に叙される
    954(26才) 父・重明親王没
    957(29才) 「承香殿女御歌合」を主催する〔3月29日〕
    962(34才) 従四位上に叙される
    967(39才) 村上天皇(42才)没
    972(44才) 「規子内親王前栽歌合」が行なわれる〔8月28日〕
    975(47才) 規子内親王、斎宮に卜定(2月)
    976(48才) 斎宮野宮での庚申の夜の歌合にて、松風入夜琴の歌を詠む
    977(49才) 規子内親王、伊勢に群行,先例に反して同行する
    984(56才) 円融天皇譲位により、規子内親王斎宮を退下(8月)、帰京する
    985(57才) 卒去
  • 所生の皇子女
    949〜986.. 規子内親王(斎宮:在任975〜985)
    962.. 皇子(即日夭折)
*歌人として著名であり、三十六歌仙の一人。斎宮女御と称されます。
父は詩文に優れ吏部王と称された重明親王。母は関白忠平の女・寛子。
8才の折、朱雀天皇の代の斎宮に選ばれました。2年後、伊勢に群行。17才のとき母の喪により斎宮を退下しました。 3年後、20才で入内。婚儀に典侍が三日夜の餅を供し、蔵人が後朝の使となるなどの故実が『源語秘訣』引用の「吏部王記」に記されています。 翌年女御となり、同年規子内親王を生む。承香殿を曹司とし、承香殿女御とも称されました。
和歌に優れたほか琴の名手であり、君寵も深かったが、父親王の没後は里邸にこもりがちになりました。
村上天皇の崩後、円融天皇の代に規子内親王は伊勢斎宮に卜定され、母娘二代の斎宮となりました。。 その野宮における庚申の夜の歌合にて、徽子女王は松風入夜琴の題で「琴の音に峰の松風かよふらし いづれのをよりしらべそめけむ」の名歌を詠みました。 規子内親王の伊勢への発向に際して、慣例を破ってひそかに後を追い、これに同行。このとき49才。退下より12年を経ての伊勢下向でした。 再び伊勢にあること7年余。円融天皇の譲位により規子内親王は斎宮の任を解かれ、ともに帰京。ほどなく病のためか出家し、翌年薨去しました。
女御という地位ながらに、その心情を独詠歌や贈答歌に吐露した作の多いことは貴重。 沈潜とした調べと優艶な情緒を漂わせた佳歌が多い。家集に「斎宮女御集」。「拾遺集」に四首、「後拾遺集」以下に二一首入集。

女御:荘子女王..930〜1008
<号:麗景殿女御>
父:中務卿 代明親王
母:(右大臣 藤原定方の女)
(同母兄弟)源重光・源保光・源延光・(同母姉妹)関白藤原伊尹室恵子・関白藤原頼忠室厳子
[夫との血縁関係]:叔父(3親等)・・・父代明の弟
    936(7才) 母・定方女没
    937(8才) 父・代明親王没
    950(21才) 村上天皇(25才)に入内か〈局:麗景殿〉、女御宣下、従四位上(10月)
    956(27才) 「麗景殿女御歌合」を主催する〔2月29日〕
    963(34才) 姉・恵子女王と共に春秋歌合を催す(7月)
    967(38才) 村上天皇(42才)没(5月)、出家する(7月)
    1008(79才) 卒去〔7月16日〕
  • 所生の皇子女
    952〜998.. 楽子内親王(斎宮:在任955〜967)
    964〜1009.. 具平親王
*麗景殿女御と称されました。代明親王の娘。母は右大臣藤原定方女。
入内の頃は明らかでありませんが、21才で女御の宣下を受け、従四位上に叙されました。
956年2月、座所麗景殿において出詠者平兼盛・藤原敦忠・壬生忠見らによる歌合を催しました。 この歌合は同年5月の宣耀殿女御矍麦合、翌年3月の承香殿女御歌合とともに村上天皇後宮の歌合として重視されます。 また、中将更衣脩子と歌合を催したことが、『拾遺集』四二の清原元輔の歌によって知られます。 更に、963年には姉で藤原伊尹室の恵子女王及びその子女たちと春秋に分かれて作歌し、贈答するという形の春秋歌合を行いました。 歌を好み、風雅な宮廷であったようです。
38才のとき天皇が崩じ、2ヶ月の後に千観内供を戒師として出家しました。
長命で、晩年には上東門院彰子とも交流がありました。

女御:藤原 芳子.. ? 〜967
<号:宣耀殿女御・小一条女御・大将御息所>
父:左大臣 藤原師尹
母:(右大臣 藤原定方の女)
(同母兄)藤原済時
[夫との血縁関係]:父の従弟(5親等)・・・師尹の父、忠平の妹、穏子の子
    955.. この頃、村上天皇(30才)に入内か〈局:宣耀殿〉
    956.. 「宣耀殿女御矍麦合」を主催〔5月29日〕、昌平親王を生む
    958.. 女御宣下(10月)
    959.. 正五位下に叙される(2月)
    962.. 従四位下に叙される(1月)
    967.. 村上天皇(42才)没(5月)、卒去〔7月29日〕
  • 所生の皇子女
    956〜961.. 昌平親王
    965〜988.. 永平親王
*宣耀殿女御と称す。また小一条女御、大将御息所とも称されました。
左大臣藤原師尹の娘。母は右大臣定方の九女。入内は師尹の左衛門督就任(953年3月)後、956年5月に催した矍麦合以前と見られます。天皇より10才〜15才程年下か。 958年、女御の宣下を受けました。
容姿美しく、特に豊かな長髪をうたわれ、目尻の少し下がった愛らしさを天皇は喜び時めかせました。
幼時、父師尹から手習い、琴の習得、『古今集』二〇巻の暗誦を、名門子女のたしなみとして心掛けるよう教えられ、入内後、天皇の古今集の歌試問によどみなく答えたという(『枕草子』二一)。 才女多き村上天皇の後宮でもとりわけ寵深く、筝や琴の秘曲を授けられるなどしました。歌人としては、956年宣耀殿女御矍麦合を主催し、『続古今集』・『玉葉集』に各一首入集。 その寵愛ぶりには中宮安子も嫉妬したが、中宮死去の後、天皇は亡き中宮が口惜しがっていたのを思って、かえって寵が衰えたとも伝えられる。
天皇の崩御より2ヶ月ほど後の、967年7月に没。

更衣:藤原 正妃.. ? 〜967
<号:按擦御息所>
父:左大臣 藤原在衡
    949.. 保子内親王を生む
    951.. 致平親王を生む
    954.. 昭平親王を生む
    960.. 「天徳四年内裏歌合」にて女房方人を務める〔3月30日〕
    967.. 村上天皇(42才)没(5月)、卒去〔7月〕、ときに正五位下
  • 所生の皇子女
    949〜987.. 保子内親王(摂政藤原兼家室)
    951〜1041.. 致平親王
    954〜1013.. 昭平親王
*按擦御息所と称される。 寵はさほどでもなかったが、皇子女を多く産んだことをもって恩遇されたという。
天徳四年(960)の内裏歌合では右の女房方人となりました。

更衣:源 計子.. 生没年不詳
<号:広幡御息所・宰相更衣>
父: 中納言 源庶明
[夫との血縁関係]:父の従弟(5親等)・・・父庶明の父、斉世の兄、醍醐帝の子
    948.. 理子内親王を生む
    955.. 父・庶明没
    960.. 「天徳四年内裏歌合」にて女房方人を務める〔3月30日〕
  • 所生の皇子女
    948〜960.. 理子内親王
    ? 〜998.. 盛子内親王(左大臣藤原顕光室)
*醍醐源氏。斉世親王の子、源庶明の女。父の広幡邸にちなみ広幡御息所と称されました。
歌才に富み、才識深く、天皇に勧めて源順らに『万葉集』の訓点を施させたという。 また天徳四年3月清涼殿において内裏歌合が開かれたが、この時左の女房方人を務めたという「宰相」とは計子を指すものと解されています。

更衣:藤原 祐姫.. 生没年不詳
<元子(尊卑分脈)>
父:大納言 藤原元方
    950.. 広平親王を生む
    953.. 父・元方没
    954.. この頃、緝子内親王を生む
    963.. 広平親王・緝子内親王、新造内裏の麗景殿に入る
    967.. 村上天皇(42才)没(5月)、出家する(7月15日)
  • 所生の皇子女
    950〜971.. 広平親王
    ? 〜970.. 緝子内親王
*大納言民部卿藤原元方の娘。
950年、第一皇子広平親王を生む。 父・元方は広平親王の立太子に望みを掛けたが、同年生まれた憲平親王(冷泉天皇)が後見の差で東宮となり、元方は憂いて没し怨霊となり、師輔一門、特に冷泉天皇に祟りをなしたという。 祐姫・広平親王も間もなく没して怨霊となったと伝えられるが、史実では祐姫はその後も長く生きて、第八皇女緝子内親王を生み、967年村上天皇の崩後、7月に出家しています。

更衣:藤原 脩子.. 生没年不詳
<号:中将更衣・中将御息所>
父:中納言 藤原朝成
[夫との血縁関係]:再従弟(6親等)・・・父朝成の父、定方の姉、胤子の子、醍醐帝の子
    960.. 「天徳四年内裏歌合」にて左頭を務める〔3月30日〕
*入内してはじめ御匣殿別当、ついで更衣となりました。中将更衣と称す。天徳四年、後宮の更衣・内侍・命婦らが方人となった内裏歌合にて左頭を務めました。

更衣:(弁更衣).. 生没年不詳
父:参議 藤原有相
    959.. 父・有相没
    960.. 「天徳四年内裏歌合」にて右頭を務める〔3月30日〕
*父は参議兼左大弁・有相。弁更衣と称する。天徳四年内裏歌合において右頭を務めました。

宮人:藤原 登子.. ? 〜975
<号:貞観殿尚侍>
父:右大臣 藤原師輔
母:藤原 盛子(武蔵守 藤原経邦の女)
(同母姉)村上天皇中宮安子・(同母兄弟)摂政伊尹・関白兼通・摂政兼家
[夫との血縁関係]:父の従弟(5親等)・・・師輔の父、忠平の妹、穏子の子
    948.. 重明親王(43才)と結婚
    954.. 重明親王(49才)没
    960.. 父・師輔没
    964.. 姉・安子没
    .... この後、村上天皇に召され入内〈局:登華殿〉
    967.. 村上天皇(42才)没
    969.. 従四位上(9月)、尚侍に任官(10月)〈局:貞観殿〉
    970.. 従三位に昇叙(11月)
    973.. 従二位に昇叙(1月)
    975.. 薨去〔3月〕
  • 所生の子女
    (父:重明親王)..女(大納言藤原朝光室)、女
*中宮安子の同母妹。はじめ式部卿・重明親王の継室。親王との間に二女をもうける。
重明親王の没後、姉の引き合わせで宮中に出入りする内に、天皇はその美貌を忘れがたく、安子の没後に後宮に召され、登華殿に住んで寵愛を受けました。
円融帝の代に尚侍に任じられ、貞観殿尚侍と称す。尚侍従二位で薨ず。