三条天皇后妃

中宮:藤原 妍子..994〜1027
<号:枇杷殿皇太后>
父:摂政太政大臣 藤原道長
母:源 倫子(左大臣 源雅信の女)
(同母兄)関白頼通(同母弟)関白教通・(同母姉)上東門院彰子(同母妹)後一条后威子
[夫との血縁関係]:従兄(4親等)・・・父道長の姉、超子の子
    1003(10才) 裳着を行う(2月20日)
    1004(11才) 尚侍に任官、正四位下(11月27日)、従三位(12月)
    1010(17才) 従二位(1月)、東宮居貞親王(三条天皇・35才)に入内(2月20日)
    1011(18才) 三条天皇践祚(6月)、女御宣下(8月23日)
    1012(19才) 中宮に立てられる(2月14日)
    1013(20才) 禎子内親王を生む(7月)
    1016(23才) 三条天皇退位
    1017(24才) 三条上皇(42才)没
    1018(25才) 皇太后となる(10月)
    1022(29才) 禎子内親王とともに新造枇杷殿に遷御
    1027(34才) 禎子内親王、東宮敦良親王(後朱雀天皇)に入内(3月)
    ........崩御〔9月14日〕
    (大峰寺の前野にて火葬、宇治木幡の宇治陵に葬られる)
*藤原道長の二女。母は源倫子。
11才の時、尚侍に任官。後宮に入ることを想定しての人事とも思われますが、姉・彰子になかなか皇子が誕生しないことの不安定さもあってか、婚期はやや遅れました。 6年後、17才で東宮・居貞親王(三条天皇)に入内。東宮は既に35才であり、6人の皇子女がいました。
翌年、三条天皇の即位にともない女御となり、さらに翌年に中宮に冊立。ときに19才。
しかし、内覧を務める父・道長と三条天皇との間柄は円滑ではなく、妍子に続いて藤原"女戒"子が皇后宮となった際には、道長はその立后の儀に公卿が参じないように妨害するなどしていました。 その年の暮れには妍子の懐妊が明らかとなり、一時融和な関係となりましたが、翌年生まれたのは皇女(禎子内親王)でした。 この時皇子を望んでいた道長は、露骨に不快感を示したようです。
禎子内親王は三条天皇より鍾愛を受けましたが、この頃より三条天皇の眼病及び体調が思わしくなくなり、道長の譲位への圧力もあって、1016年三条天皇は退位。 翌年に崩御しました。
妍子と禎子内親王は三条上皇より枇杷殿(陽明門院)を伝領し、ここを御所としました。このため、枇杷殿皇太后と称されます。
1027年3月、15才となった禎子内親王が東宮に入内する慶事がありましたが、半年後の9月、34才で崩御。
華美を好む性格であったという。

皇后宮:藤原 じゅうし..972〜1025
<号:宣耀殿女御・堀河女御(東宮妃時代)>
父:大納言 藤原済時
母:(大納言 源延光の女)
[夫との血縁関係]:再従弟(6親等)・・・父済時の父、師尹の姉、安子の孫
    991(20才) 東宮居貞親王(三条天皇・16才)に入内〈局:宣耀殿〉(10月)
    994(23才) 敦明王を生む
    995(24才) 父・済時没
    1011(40才) 三条天皇践祚(6月)、女御、従四位下(8月23日)
    1012(41才) 皇后宮に立てられる(4月27日)
    1016(45才) 三条天皇退位、敦明親王立太子
    1017(46才) 三条上皇(42才)没、敦明親王皇太子を辞す
    1019(48才) 出家(3月)、剃髪(5月)
    1025(54才) 崩御〔3月25日〕
    (雲林院の西に土葬される)
  • 所生の皇子女
    994〜1051.. 敦明親王(後一条天皇皇太子・小一条院)
    997〜1054.. 敦儀親王
    999〜1049.. 敦平親王
    1001〜1023.. 当子内親王(斎宮;在任1012〜1016)
    1003〜1048.. ℃q内親王(関白藤原教通室)
    1005〜1085.. 性信入道親王[師明親王](仁和寺御室)
*大納言藤原済時の長女。母は源延光の女。
991年、20才のとき、4才下の東宮・居貞親王に入内。宣耀殿女御と称さる。「えもいはず美しき姫君」と記される美麗な女性で東宮の寵を受け、四皇子二皇女の六人の子女に恵まれました。
しかし995年に藤原道隆女・原子、1010年道長女・妍子と権門の娘が入内し、995年には父の済時も没したため権勢的には不遇でした。
1011年、三条天皇の即位により女御宣下。翌年、3月に中宮となった妍子に遅れたものの、皇后宮に立てられる。 この立后の日と同日、中宮妍子の父・道長は妍子を立后後初めて内裏に参入させ、公卿のほとんどはそちらに伺候しました。 そのため立后の儀礼に参じる公卿は、藤原実資・隆家などわずか数名しかいなかったという。
1016年、三条天皇の譲位にともない、次期皇太子に所生の敦明親王が立てられましたが、三条上皇の没後、敦明親王は自ら皇太子を辞退。 また斎宮を退いた当子内親王に藤原道雅との密通の噂が立ち、三条上皇の怒りによって内親王は出家し、早世するという不幸にも見舞われました。
48才となった1019年3月落飾し、5月には病危急により剃髪。年来仕えていた乳母・侍女の多くがともに出家しました。
1025年3月、54才で崩御し、雲林院の西に葬られました。
『大鏡』の語りの舞台に設定された雲林院の菩提講は、この皇后宮の法要だろうと推定されています。

東宮女御:藤原 綏子..974〜1004
<号:麗景殿女御>
父:摂政太政大臣 藤原兼家
母:(皇后宮権大夫 藤原国章女・対御方)
[夫との血縁関係]:甥(3親等)・・・姉超子の子
    986(13才) 東宮居貞親王(三条天皇・11才)元服の際の添臥となるか
    987(14才) 尚侍に任じられる(9月)〈局:麗景殿〉
    989(16才) 東宮居貞親王(14才)に参入(12月9日)
    990(17才) 父・兼家没、この頃より土御門西洞院の里邸に籠居
    995(23才) この頃、弾正大弼・源頼定と密通事件を起こす
    999(27才) 正二位に叙される(1月)
    1004(32才) 薨去〔2月7日〕
*摂政藤原兼家の女。母は藤原国章女で、対御方と呼ばれた女性。
986年、11才となった東宮居貞親王(三条天皇)の元服の儀が行われ、この時綏子は添臥役を務め、そのまま東宮女御となったようです。ときに13才。 翌年9月尚侍に任じられ、麗景殿を局としました。
はじめは東宮の寵愛を受けましたが、父・兼家が没した頃より土御門西洞院にある里邸に籠もりがちとなりました。
明るい気質で里邸を訪れる貴族が多く、そのような中で長徳年中(995〜999)に源頼定と私通するという事件を起こし、一時東宮の勘気を蒙りました。
32才となった1004年2月、意識不明のまま数日を経、7日夜薨じました。

東宮女御:藤原 原子.. 981?〜1002
<号:淑景舎女御>
父:関白左大臣 藤原道隆
母:高階貴子(式部大輔 高階成忠の女)
(同母兄)内大臣伊周・権中納言隆家・(同母姉)一条后定子
[夫との血縁関係]:従兄(4親等)・・・父道隆の姉、超子の子
    993(13才) 妹の道隆三女・四女とともに裳着を行う(2月22日)
    995(15才) 東宮居貞親王(三条天皇・20才)に入内〈局:淑景舎〉(1月19日)
    ....... 父・道隆没(4月)
    996(16才) 兄伊周・隆家左遷(長徳の変)
    ....... 二条第焼亡(6月)、母・貴子没(10月)
    1002(22才) 薨去(頓死)〔8月3日〕
*関白藤原道隆の二女。母は高階貴子。
995年1月、14、5才で東宮居貞親王(三条天皇)に入内。淑景舎に入り淑景舎女御と称されました。
寵愛を受けましたが、入内より僅か3ヵ月後の4月、父の道隆が死去。 翌年の兄伊周・隆家の左遷により一家の権勢は凋落し、後見ははかばかしくありませんでした。
1002年8月に薨去。『栄花物語』によると、鼻、口より血を出すという頓死であり、宣耀殿女御の側による毒殺の風説が流れました。
享年は、22、3才であったといいます(『大鏡』)。
『枕草子』には、入内より程ない頃に姉・定子の住まう登華殿を訪れて一家歓談した様子や、道隆の没後に兄・隆円と姉の元を訪れた時の様子が記されています。