高倉天皇后妃

中宮:平 徳子..1155〜1213
<建礼門院、 法名;真如覚>
父:太政大臣 平清盛
母:平 時子(兵部権大輔 平時信の女)
代父:後白河天皇 (同母兄)内大臣宗盛・(異母姉)関白藤原基実室盛子
[夫との血縁関係]:従弟(4親等)・・・母時子の妹、滋子の子
    1171(17才) 後白河法皇の猶子となる、従三位に叙位(12月2日)
    ........高倉天皇(11才)に入内(12月14日)、女御宣下(26日)
    1172(18才) 中宮に立てられる(2月)
    1178(24才) 皇子(安徳天皇)誕生(11月)、皇子(1ヵ月)立太子(12月)
    1180(26才) 高倉天皇退位、安徳天皇即位
    1181(27才) 高倉上皇(21才)没(1月)、父・清盛没(3月)
    ........女院(建礼門院)となる(11月25日)
    1183(29才) 一門とともに西国に赴く(7月)
    1185(31才) 壇ノ浦の戦い、母時子・安徳天皇ら入水(3月)
    ........帰京、女院の待遇停止(4月)、出家(5月1日)、大原に閑居(10月)
    1186(32才) 後白河法皇の大原御幸(4月)
    1187(33才) 源頼朝より兄・平宗盛の遺領の摂津国真井・島屋両荘が寄進される
    1192(38才) 鎌倉幕府成立
    1213(59才) 崩御〔12月13日〕
    (寂光院隣接の大原西陵に葬られる)
  • 所生の皇子女
    1178〜1185.. 言仁(安徳天皇;在位1180〜1185)
宮廷での女官:建礼門院右京大夫(「建礼門院右京大夫集」の作者、歌人)・阿波内侍(大原女の初め)

*平清盛の三女。母は平時子。
 生年についてはニ説あり、『平家物語』は保元二年(1157)、『女院記』は久寿二年(1155)、『女院小伝』は保元二年または久寿二年としている。
 1171年12月、待賢門院の先例にならい、後白河法皇の猶子として従三位に叙され、入内し女御となりました。ときに17才(15才)。天皇は11才。翌年中宮に冊立されました。
 24才(22才)のとき、六波羅邸で待望の皇子(安徳天皇)を生む。2年後、安徳天皇即位。翌年高倉上皇が崩じ、女院号を賜り、建礼門院と号しました。
 1183年7月源義仲の入京により、安徳天皇、平家一門とともに都を逃れ、西国に赴きました。翌8月京では後鳥羽天皇が践祚。 平家は瀬戸内を掌握し、一時摂津福原にまで進出して京に迫る勢いを示しましたが、源義仲を破った源範頼・義経が西下し、平家は一の谷で大敗。 長門屋島に本拠を置き建て直しをはかりましたが、1185年2月源義経に屋島を急襲されて陥落、屋島の内裏も焼かれて、建礼門院・安徳天皇は海上に逃れました。
 翌3月、壇ノ浦で最後の決戦が行われ、敗れた平家一門は次々に海中に身を投げ、安徳天皇も祖母・時子に抱かれ入水。建礼門院も続いて入水しましたが、渡部党の源五馬允番・源兵衛尉眤父子に助けられ、1ヶ月後に一門の生虜とともに京へ帰りました。
 同年5月、東山長楽寺にて31才(29才)で出家し、以後は一門の菩提を弔う日々を送りました。のち大原の寂光院に移る。 翌年4月、後白河法皇が訪れ、昔を語り合い涙したという『平家物語』大原御幸のくだりは名高い。
 のち都に戻り、法性寺の辺りに住んだといわれるが定かではない。洛東岡崎の善勝寺に移り、のち鷲尾の金仙院に止住し崩じたともいう。
 没年も諸説あり、『平家物語』は貞応二年(1223)3月、67才で没、『女院記』は建保元年(1213)2月19日、59才で没、『女院小伝』は建保元年12月13日、57才または59才で没としている。 『平家物語』の、女院が承久の乱を経験し世の盛衰の哀れを新たにして入滅するという設定には、物語作者の意図が感じられるともされる。
 寂光院隣接の大原西陵に葬られたと伝えられるも、これも確かではない。

[女院]:藤原(坊門) 殖子..1157〜1228
<七条院、 号:兵衛督君、法名:真如智>
父:修理大夫 坊門信隆
母:藤原 休子(大蔵卿 藤原通基の女)
(同母弟)内大臣 信清
    1178(22才) この頃、高倉天皇(18才)に召される、典侍に任官
    1179(23才) 守貞親王を生む
    1180(24才) 尊成親王(後鳥羽天皇)を生む、高倉天皇退位
    1181(25才) 高倉上皇(21才)没
    1183(27才) 後鳥羽天皇(4才)践祚
    1184(28才) 後鳥羽天皇即位
    1190(34才) 従三位、准三后(4月19日)、女院(七条院)となる(22日)
    1195(39才) 天皇と伴に東大寺再建供養に出席,惟明親王を猶子とする(3月)
    1198(42才) 後鳥羽天皇退位、孫・土御門天皇即位
    1200(44才) 後鳥羽上皇の熊野社参詣に同行
    1205(49才) 出家する(11月)
    1206(50才) 筑前安楽院に三重塔を造立し、荘園を寄進
    1207(51才) 後鳥羽上皇の熊野社参詣に同行
    1210(54才) 孫・順徳天皇即位
    1211(55才) 後鳥羽上皇の熊野社参詣に同行
    1214(58才) 天皇、上皇、修明門院臨席のもと法勝寺歓喜寿院の落成供養を行う
    1219(63才) 後鳥羽上皇の熊野社参詣に同行
    1221(65才) 座所・三条殿、放火にて焼亡(2月)、承久の乱(4月)
    ........後鳥羽上皇隠岐に赴く際、女院に肖像画を贈る
    ........孫・後堀河天皇即位、後高倉院の院政始まる
    1223(67才) 後高倉院守貞親王没
    1226(70才) 重病のため藤原兼子(卿局)の勧めにより、所領の譲与を定める(8月)
    1228(72才) 所領を処分する(8月)、崩御〔9月16日〕
  • 所生の皇子女
    1179〜1223.. 守貞親王(後高倉院・後堀河天皇の父)
    1180〜1239.. 尊成(後鳥羽天皇;在位1183〜1198)
    (猶子)惟明親王(高倉天皇皇子・生母平範子)・道助入道親王(後鳥羽天皇皇子)
*七条修理大夫と称された藤原信隆の女。
 『増鏡』には、はじめ兵衛督君といって中宮平徳子に仕えたとあります。父信隆の後妻は平清盛の娘であり、その縁故によるものか。 のち高倉天皇に召され、典侍に任じられ、第二皇子守貞(後高倉院)、第四皇子尊成(後鳥羽天皇)を生みました。
 平家の都落ちに際し、安徳天皇の代わりに新帝を立てることとなったが、第二皇子・守貞は平家とともに西国に下り、後白河法皇の意向により第四皇子・尊成が践祚。後鳥羽天皇となりました。
 のち1190年、天皇母儀として従三位に叙位、准三后。ついで女院となり七条院と号す。八条院の先例に従い、臣下としては立后なき准三后からの女院号宣下の初例となりました。 既に没していた父・信隆には左大臣従一位が贈られ、母もまた正一位を追贈。 殿上の慣例になれてくると積極的に公儀の場に臨み、謙譲の心に乏しいと非難を浴びました。
 後鳥羽天皇は譲位ののち上皇として院政を敷き、七条院は上皇から厚い孝養を受けました。 その勢威は御所の造営、御願寺建立、熊野や石清水、日吉、稲荷の参詣参籠に表されています。
 しかし、承久の乱により後鳥羽院の院政は停止され、仲恭天皇の廃位、土御門・順徳両上皇らの配流も定まりました。 後鳥羽上皇は隠岐島への配流に先立ち、七条殿での訣別の際、藤原信実に描かせた肖像画を形見として送りました。 その後、女院は隠岐に和歌を贈っています。
 代わって即位した後堀河天皇は、所生の守貞親王の王子であり、既に出家していた守貞親王は幕府より託され後高倉院の称号を得て院政を敷き、治天の君たる上皇の母の身分に変わりはありませんでした。しかし乱の後、京中の治安は悪化し、ついに七条院御所は群盗の襲撃を受けましたがそのまま居を移しませんでした。
 七条院領の大部分は後鳥羽天皇が後白河上皇より伝領した後院領の一部と平家没官領で、乱後幕府に没収されましたが、後に後高倉院から母七条院の手に返ったという。後高倉院にも先立たれ病がちとなった女院は1226年、卿局の勧めによって道助入道親王らへの譲与を定めたが、さらに崩御の1月ほど前の処分で、その所領の大部分を修明門院重子に譲与しました。

[准三后]:藤原(近衛) 通子..1163〜 ?
父:関白太政大臣 藤原基実
母:(左京大夫 藤原顕輔の女・六条局)
    1166(4才) 父・基実没
    1177(15才) この頃、非公式に入内する
    1178(16才) 言仁親王(安徳天皇)誕生、後に准母となる
    1179(17才) 継母・平盛子没
    1180(18才) 高倉天皇退位、安徳天皇即位
    1181(19才) 准三后となる(2月17日)、輦車をゆるされる(11月3日)
(養子)安徳天皇(高倉天皇皇子・生母平徳子)

*関白基実の娘。母は基実の父・関白忠通家の女房にして六条局という。
 治承年間(1177〜1181)の初めに非公式に入内。言仁親王(安徳天皇、母は平徳子)の生誕後にその准母となりました。従三位に叙位。
 養和元年2月、准后となる。『玉葉』によるとこのとき19才。
 父・基実の正妻は平清盛の娘・盛子であり、異母兄の基通の妻も平清盛の五女である。

典侍:藤原(堀河) 豊子.. 生没年不詳
<号:按察典侍・西御方>
父:参議 堀河頼定
母:(中務少輔教良の女・侍従春日・高松院女房)
    1179.. 潔子内親王を生む(4月18日)
  • 所生の皇子女
    1179〜 ? .. 潔子内親王(斎宮;在任1185〜1198)
*内裏女房。按察典侍と称されました。 1179年4月18日、春日南、京極西角の里第にて皇女(潔子)を生む。

掌侍:平 範子..生没年不詳
<号:少将内侍>
父:宮内少輔 平義輔
母:(大膳大夫 平信業の妹)
    1179.. 惟明親王を生む(4月11日)、掌侍に任じられる(6月)
  • 所生の皇子女
    1179〜1221.. 惟明親王
*皇子(惟明親王)を生み、掌侍に任じられて少将内侍と称されました。

宮人:(帥局).. ? 〜1179
父:右近衛少将 藤原公重
    1176.. 功子内親王を生む(3月30日)
    1179.. 死去〔1月11日〕
  • 所生の皇子女
    1176〜 ? .. 功子内親王(斎宮;在任1177〜1179)
*父は藤原公重。実名は公子かともいわれます。帥局と称されました。高倉天皇の乳母。 高倉天皇15才の時、皇女(功子内親王)を生む。乳母として天皇に閨房のことを教え、同衾するうちに懐妊したという。功子内親王は天皇の第一子でしたが、当時としても醜聞だったようです。
 里邸にて別の男性と通じ、流産により死去。功子内親王は母の喪を以って斎宮を退下しました。

宮人:(小督局)..1157?〜 ?
<別号:小督殿>
父:権中納言 藤原成範
    1177(21才) 範子内親王を生む(11月)
    1179(23才) 出家する
    1190(34才) この頃(建久年間1190〜1199)、嵯峨野に閑居す
*桜町中納言と称された藤原成範の娘。一説に父の片諱をとり実名を藤原成子といいます。
 父成範は信西入道の子であり、かつて平清盛長女の婿でした。
 『平家物語』によると、小督局は宮中に仕えて宮中一の美人と称され、また琴の名手であった。 はじめ平清盛の女婿冷泉隆房に愛されたが、のち高倉天皇に召され寵愛を受ける。 このため、中宮徳子および冷泉隆房室の父である清盛に憎まれ、それを聞き及んだ小督局は宮中を出て嵯峨野に隠れた。 天皇は源仲国に小督局を探し出すよう命を下し、笛の名手・仲国は小督局の弾いていた琴の秘曲「想夫恋」を聞いて探しあて、ひそかに宮中に連れ戻した。 寵愛は旧に倍し皇女を生むが、清盛の激憤にあい、尼にされ追放されたという。ときに23才。以上が『平家物語』の説話。
 小督局が実在し、晩年に嵯峨野に暮したことは、藤原俊成女(健寿御前)が『建春門院中納言日記』に記しています。 額の生え際の美しい、清爽な女性であったという。