後堀河天皇后妃

皇后宮:藤原(三条) 有子..1207〜1286
<安喜門院、号:三条后、法名:真清浄>
父:太政大臣 三条公房
母:藤原修子(太宰大弐 藤原範能の女か)
    1222(16才) 従三位に叙位(10月)、後堀河天皇(11才)に入内、女御宣下(12月)
    1223(17才) 中宮に冊立(2月)
    1226(20才) 皇后宮となる(7月)
    1227(21才) 女院(安喜門院)となる(2月)、この頃浄土寺に引きこもる
    1232(26才) 後堀河天皇退位、四条天皇即位
    1234(28才) 後堀河上皇(23才)没
    1242(36才) 後嵯峨天皇即位
    1246(40才) 出家する(9月)、後深草天皇即位
    1249(43才) 父・公房没
    1259(53才) 亀山天皇即位
    1274(68才) 後宇多天皇即位
    1286(80才) 崩御〔2月6日〕
*太政大臣三条公房の女。安喜門院の院号を賜る。后の頃は三条后とも呼ばれました。
元服ほどない後堀河天皇に入内、女御となりました。有子は天皇より5才年上の16才。 翌年中宮に冊立。1226年、新たに藤原(近衛)長子が中宮となるにともない、皇后宮となる。 21才で女院となり、後宮を出て浄土寺に引きこもりました。
のち40才で出家。仏道に励むこと40年、80才で崩御。

中宮:藤原(近衛) 長子..1218〜1275
<鷹司院、 法名:蓮華性>
父:関白 近衛家実
母:(修理大夫 藤原季信の女)
代母:宣陽門院覲子内親王(後白河天皇皇女)
    1226(9才) 従三位に叙位(4月)、後堀河天皇(15才)に入内(6月)、女御宣下(7月1日)
    .......中宮に冊立(29日)
    1228(11才) 父・家実、関白を退き太政大臣となる、九条道家が関白に就く(12月)
    1229(12才) 女院(鷹司院)となる(4月)
    1232(15才) 後堀河天皇退位、四条天皇即位
    1234(17才) 後堀河上皇(23才)没
    1237(20才) 四条天皇(7才)の准母に遇せられる(7月)
    1242(25才) 四条天皇没、後嵯峨天皇即位,父・家実没
    1246(29才) 出家する(4月)、後深草天皇即位
    1252(35才) 代母・宣陽門院没(6月)、上西門院領を伝領する
    1259(42才) 亀山天皇即位
    1274(57才) 後宇多天皇即位
    1275(58才) 崩御〔2月11日〕
    (養子)四条天皇・(養女)鷹司兼平女
*関白近衛家実の女。宣陽門院覲子内親王の猶子。
1226年6月に入内、7月女御となり、同月中宮に立てられました。ときに9才。宣陽門院の働きかけがあったと思われます。 12才で女院号を賜り、鷹司院と号しました。
17才の折、後堀河上皇は崩御。3年後、生母・藻璧門院も亡くしていた四条天皇の准母に遇せられましたが、1242年不慮の事故により四条天皇没。 のち、29才で出家剃髪。
宣陽門院が没すると、遺領のうち上西門院領を伝領。 死没後、その遺領は養女・鷹司兼平の女に伝えられ、後嵯峨上皇が管領し、1293年伏見天皇領となりました。

中宮:藤原(九条) そんし..1209〜1233
<藻璧門院>
父:関白左大臣 九条道家
母:西園寺 綸子(太政大臣 西園寺公経の女)
(同母兄弟)関白教実・鎌倉4代将軍頼経
    1228(20才) 父・道家、関白に就任(12月)
    1229(21才) 後堀河天皇(18才)に入内(11月16日)、女御宣下(22日)
    1230(22才) 中宮に冊立(2月)
    1231(23才) 皇子(四条天皇)を生む(2月)、秀仁親王立太子(10月)
    1232(24才) 後堀河天皇退位、四条天皇即位
    1233(25才) 女院(藻璧門院)となる(4月)、崩御(死因:難産)〔9月18日〕
    (月輪殿の南辺に葬られる)
  • 所生の皇子女
    1231〜1242.. 秀仁(四条天皇;在位1232〜1242)
    1232〜1237.. r子内親王
    1233.. 皇子
宮廷での女官:藻璧門院少将(歌人)

*関白九条道家の長女。母は西園寺綸子。
父・道家は鎌倉将軍・頼経の父であることから勢力を持ち、道家の関白就任の翌年、後堀河天皇に入内して女御となりました。ときに21才。天皇は18才。 翌年2月、中宮に冊立。 1231年2月に第一皇子(四条天皇)を生みました。四条天皇即位を受け、翌1233年、女院となり藻璧門院と号す。 この院号について『明月記』では、元来この門は「用ふべからざる門なり」とし、また「其の上、藻の字不吉なり」と述べています。 同年9月、当時興福寺と延暦寺の争いが激化、世間物騒の中で女院は皇子を出産しましたが、皇子は没し、女院も死去。ときに25才。 上下悲嘆、僧侶、陰陽師の恥辱はこれ以上のことはないと記されています。父・道家の月輪殿の南辺に葬られました。

典侍:(別当典侍).. 生没年不詳
父:権中納言 藤原(持明院)家行
母:(藤原定能の女)
[夫との血縁関係]:父の従弟(5親等)・・・父家行の父、基宗の妹、陳子の子
    1228.. 暉子内親王を生む
    1231.. 體子内親王を生む
  • 所生の皇子女
    1228〜1300.. 暉子内親王(室町院
    1231〜1301.. 體子内親王(神仙門院
*藤原(持明院)家行の長女。後堀河天皇母・陳子の甥の娘に当たります。後宮に入って典侍となり、別当典侍と称しました。

典侍:(大納言局).. 生没年不詳
父:権大納言 藤原兼良
母:(右京大夫 藤原信定の女)
    1231.. c子内親王を生む(9月29日)
  • 所生の皇子女
    1231〜1246.. c子内親王(斎宮;在任1237〜1242)
*権大納言藤原兼良の長女。典侍となり、大納言局と称しました。