仁徳天皇后妃

 
皇后:磐之媛命【いわのひめ】
<石之日売命(古事記)>
父:葛城 襲津彦
    仁徳二年..皇后となる(3月8日)
    仁徳七年..磐之媛のために葛城部が定められる
    仁徳二十二年..仁徳天皇、八田皇女を妃としたい旨を話すが、許さず
    仁徳三十年..紀国に行幸、その間に八田皇女が妃となる
    ......... 筒城岡の南に居し還らず(9月)
    ......... 口持臣が遣わされる(10月)、天皇筒城宮に行き帰還を促す(11月)
    仁徳三十一年..去来穂別尊が皇太子となる
    仁徳三十五年..山背の筒城宮において薨去〔6月〕
    (乃羅山に葬られる)
  • 所生の皇子女
    去来穂別(履中天皇),住吉仲皇子,瑞歯別(反正天皇),雄朝津間稚子宿禰(允恭天皇
*葛城襲津彦の女。名代として葛城部が定められる。
 非常に嫉妬深く、天皇が新たに妃を納れることを拒みました。とりわけ八田皇女を妃とすることは承知せず、磐之媛の行幸中に天皇が八田皇女が妃としたため、そのまま難波の宮には帰らず、山城の筒城岡に入り、ここで没したという。
 古事記、書記ともに天皇との数多くの贈答歌を載せます。万葉集にも媛のものと伝えられる歌が載ります。

皇后:八田皇女【やた】
<矢田皇女、八田若郎女(古事記)>
父:応神天皇
母:宮主宅媛(和珥臣の祖先 日触使主の女)
[夫との血縁関係]:異母兄弟(2親等)・・・父応神帝の子
(同母兄)応神天皇皇太子 菟道稚郎子皇子・(同母妹)雌鳥皇女
    仁徳即位前年..兄・菟道稚郎子、位を譲り死没する際、八田皇女の後宮入りを願う
    仁徳三十年..仁徳天皇の妃となる
    仁徳三十八年..皇后に立つ(1月6日)
    仁徳四十年..妹・雌鳥皇女、夫の隼別皇子と伴に謀反により討たれる
    .........皇女の玉飾りを取らぬよう求める、佐伯直反し、玉代の地を献ずる
*応神天皇の皇女。母は和珥氏の日触使主の女・宮主宅媛。
 同母兄・菟道稚郎子皇子は、仁徳天皇に位を譲って没したとあり、播磨風土記に「宇治天皇」と書かれる。妹の八田皇女、ついで雌鳥皇女を妃に求めたのは政略的なものでしょう。先立の皇后・磐之媛が皇女の参入を強く拒んだため、磐之媛の行幸中に宮中に入りました。磐之媛の没後、皇后に立てられる。
 古事記には磐之媛崩御のことは見えず、したがって八田皇女を皇后としたことも見えませんが、妃となった八田皇女のために名代・八田部が定められたことが記されています。

妃:髪長媛【かみながひめ】
<日向髪長媛、髪長比売(古事記)>
父:諸県君 牛諸井
    応神十一年..ある人、髪長媛の美貌を応神天皇に奏す
    応神十三年..応神天皇、専使を遣わし髪長媛を召す(3月)
    .........摂津国桑津に至る(9月)、大鷦鷯尊(仁徳天皇)に見初められる
    .........応神天皇、宴の席にて媛を大鷦鷯尊に賜る
*日向国の諸県君牛諸井の女。
 はじめ応神天皇の後宮に召しだされたが、日向より河内の宮に向かう途上、大鷦鷯尊に見初められ、天皇により大鷦鷯尊に譲られました。古事記にも同様の伝があります。

妃:菟道稚郎姫皇女【うぢのわきいらつめ】
<宇遅之若郎女・宇遅能若郎女(古事記)>
父:応神天皇
母:小"扁瓦"媛(和珥臣の祖先 日触使主の女)
[夫との血縁関係]:異母兄弟(2親等)・・・父応神帝の子

*応神天皇の皇女。古事記に、仁徳天皇の妃となったが子供は生まれなかったとある。

妃:黒日売【くろひめ】
父:吉備海部直

*古事記に伝が載る。天皇に召されたが、大后・石之日売命(磐之媛命)の嫉妬を恐れ、船で吉備に帰ろうとしました。天皇が高楼よりその船を見て、愛しい人の船が下っていくという歌を詠むと、石之日売は怒り、人を遣わして黒日売を船から下ろさせ、徒歩で帰らせました。
 後に、天皇は淡路島に行くと偽り、吉備の黒日売に会いに行き、黒日売は青菜を摘んで供応したという。