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皇后:気長足姫尊【おきながたらしひめ】 .<神功皇后、息長帯比売命、大帯比売命(播磨風土記)、息長帯比売天皇(常陸風土記)> 父:気長宿禰王 母:葛城高額媛 [夫との血縁関係]:再々従兄子(9親等)・・・曾祖父山代大筒木真若王の兄、丹波道主王の娘日葉酢媛の曾孫
仲哀八年..筑紫に向かい、橿日宮に到着(1月)、神懸かりして新羅遠征を説く(9月) 仲哀九年..仲哀天皇没(2月)、神託する(3月)、和珥津より新羅に発つ(10月) ....... 新羅より帰還、筑紫において誉田別皇子(応神天皇)誕生(12月) 神功元年..穴門豊浦宮、次いで小竹宮に移る(2月) ....... 継子の忍熊王が反乱し、これを討つ(3月) ....... 皇太后となる(10月2日) 神功三年..誉田別皇子を皇太子とする、磐余の若桜宮に移る 神功四十六年..斯摩宿禰を卓淳国に遣わす 神功四十九年..荒田別・鹿我別を将軍とし新羅を攻める 神功五十一年..百済から朝貢あり、返礼に千熊長彦を百済に遣わす 神功五十二年..百済より七枝刀(石上神宮の七支刀?)が献ぜられる 神功六十二年..葛城襲津彦を派遣し新羅を攻める 神功六十九年..薨去〔4月17日〕、気長足姫尊と尊称する(10月) (狭城盾列陵に葬られる)
『日本書紀』によれば、熊襲征伐のため筑紫に下っていたとき、皇后が神がかりとなり天皇に新羅を討つように託宣しましたが、天皇がこれを信じなかったため、神の怒りに触れて天皇は急逝。皇后は改めて託宣を行い、妊娠していたが石を腰に挟んで出産を押さえ、男装して新羅と百済に自ら兵を進め、凱旋して筑紫で誉田別皇子(応神天皇)を生みました。 ついで天皇の遺体を収めて大和へ向かいましたが、幼い誉田別皇子が世継となることを不満に思う忍熊皇子が兵を挙げ、皇后を迎え撃ちました。危険を感じた皇后は武内宿禰らと紀伊を経由して軍を進め、忍熊皇子軍を山背で破り、近江の逢坂で皇子を自殺させました。 のち皇太后となり、誉田別皇子を皇太子に立て、磐余の若桜宮にて政務をとりました。摂政として69年あり、100才で没したといいます。 『日本書紀』はこの説話を神功紀として一巻にとりますが、『古事記』は仲哀記に収めています。 神功皇后の巫女的な説話は古代首長制の性格を示唆していますが、新羅征討は事実とは考えられないこと、皇后の名に天皇の一般呼称である「たらし」が含まれていることなどから、仲哀天皇とともに実在性は疑われています。 また『日本書紀』の編者は神功皇后を三世紀の卑弥呼と同一視しようとして、神功紀の中に魏志、倭人伝等を多く引用しているが、干支を二運(120年)繰り上げて挿入するなど、意図的な作為が見られます。 なお、応神天皇を新王朝の始祖とし、神功説話をその征服戦争の反映とする説もあります。 |
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妃:大中姫【おおなかつひめ】 .<大中津比売命、大中比売命(古事記)> 父:彦人大兄皇子 母:銀王(倭建命の庶妹)[古事記] [夫との血縁関係]:従兄弟(4親等)・・・父彦人大兄の兄、日本武尊の子
古事記に系譜が載り、倭建命(日本武尊)の曾孫の訶具漏比売と景行天皇との子・大枝王が倭建命の庶妹・銀王を娶って生まれた子とする。これに従うと、景行天皇が自分の曾々孫を娶ったことになり、疑わしい。 |
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妃:弟媛【おとひめ】 父:大酒主(来熊田造の祖先)
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