信長の妻妾

正室:帰蝶..1535〜1612
(号:濃姫・安土殿、法名:養華院)
父:斎藤道三
母:(小見の方)
    1548(14才) 斎藤・織田間に和議成立
    1549(15才) 信長(16才)と結婚(2月)
    1553(19才) 父・道三と信長、聖徳寺で会見
    1556(22才) 父・道三、子の義龍と戦い、長良川で戦死
    1557(23才) 信長嫡子・奇妙(生母・生駒吉乃)誕生
    1561(27才) 兄・斎藤義龍没、甥・竜興が家督を継ぐ
    1567(33才) 信長、斎藤竜興を攻め、稲葉山城を落とす
    ........岐阜城と改名させ、移り住む
    1576(42才) 信長、安土城に移る
    1582(48才) 本能寺の変、夫・信長(49才)没
    1612(78才) 死去〔7月9日〕
*斎藤道三の娘。母は道三の三番目の妻・小見の方。
1548年に成立した斎藤・織田間の和議の証として、翌年15才で織田家嫡子だった信長に嫁ぎました。嫁ぐ際に父より短刀を渡され、信長が本物のうつけなら刺し殺せと言ったところ、父上を殺す事になるかもしれないと言ったという説話は有名。
道三が戦死した際には、娘婿たる信長へ所領を譲るという遺言を残したといいます。
しかし、実家を失い、子もなく、翌年生駒吉乃が嫡子を生んだ事もあって、彼女の記述は以後ほとんどありません。病死・離縁説もありますが、信長の晩年に至るまで正室の存在を示す記述があり、正室として信長とともに岐阜・安土に移り住んだようです。
安土城跡の總見寺に所蔵される織田家の過去帳『泰巌相公縁会名簿』に「養華院殿要津妙玄大姉 慶長十七壬子七月九日 信長公御台」とあり、これを帰蝶とすると、信長より遅れること30年にして78才で死去したようです。墓は、信長及び織田親族の墓が多くある京の大徳寺総見院の、「養華」と刻字されていた五輪塔とみられています。

側室:生駒吉乃..1528?〜1566
(法名:久庵桂昌)
父:生駒家宗
    1556(29才) 夫・土田弥平次、戦死、信長側室となる
    1557(30才) 長男・奇妙(信忠)誕生
    1558(31才) 次男・茶筅(信雄)誕生
    1559(32才) 長女・五徳姫誕生
    1563(36才) 五徳姫(5才)、徳川家康嫡子・竹千代(5才)との婚約成る
    1566(39才) 死去〔5月13日〕
  • 所生の子女
    信忠(奇妙、美濃岐阜城主)、信雄(茶筅、清洲城主)
    五徳(松平信康室)
*はじめ、土田弥平次と結婚。弥平次は信長の母・土田殿の縁者であったといいます。
夫・弥平次は、斎藤義龍との戦いで戦死し、実家に帰っていた所を信長に見初められて側室となりました。信長より4才ほど年長でした。嫡子である信忠(奇妙)・信雄・五徳を生み、「御台」と称され正室格の扱いを受けたようです。
小牧城において39才で病死。生駒家の菩提寺・龍徳寺(後に九昌寺)に葬られました。

側室:お鍋.. ? 〜1612
(法名:興雲院)
父:高畑源十郎(近江の郷士)
    1567.. 夫・小倉実澄没、この後、信長(34才)の側室となる
    1573.. 酌(信吉)誕生
    1582.. 本能寺の変、信長(49才)没、次男・松千代(16才)ともに戦死
    1583.. 秀吉に近江愛知郡の百八十二石を化粧料として与えられる
    1600.. 関ヶ原の戦い、信高・信吉西軍に加わり改易
    1612.. 死去〔6月25日〕
  • 所生の子女
    (父:小倉実澄) 甚五郎(松任城主)、松千代(信長小姓)
    (父:織田信長) 信高(小洞)、信吉(酌)
    ......... 於振(水野忠胤・佐治一成室)
*近江の有力土豪の娘で、はじめ小倉実澄の妻となり、甚五郎・松千代の二子を生みました。
六角の臣下・日野城主蒲生定秀によって攻められ、夫・実澄は戦死しました。お鍋は、二子を連れて逃れ、縁あって信長の側室となりました。前夫との二子には、後に父の旧領が与えられました。
信長と間に二男一女、七男信高・八男信吉・於振。次男・信吉の幼名「酌」は、鍋には酌子が添うものということから付けられたといいます(適当な)。
信長が本能寺で倒れた時、先夫との子で小姓となっていた松千代も伴に討死しました。甚五郎は、豊臣秀吉によって加賀松任城主に任じられましたが、ほどなく精神不安定となり近江で没しました。
お鍋自身、秀吉より1583年に化粧料百八十二石を与えられ、翌年にはさらに四百石を追加されました。
信高は近江愛知郡菩提寺村、神崎郡山上村に計二〇〇七石を、信吉は神崎郡高野村、犬上郡宇尾村などに計二〇〇〇石を与えられ、お鍋は信吉とともに神崎郡の高野の館に住みました。しかし、関ヶ原の戦いにおいて信高・信吉兄弟は西軍に加わったため、戦後はこの地を追われ、京に閑居して、従姉妹にあたる淀君より五〇石の知行を与えられました。
『言経卿記』によると、お鍋の方は公家・白川雅朝の室を介して山科言経に平家物語の書写を依頼しており、文芸に造詣が深かったようです。