信長の娘

長女:五徳..1559〜1636
(号:尾張御新造さま・岡崎殿、法名:見星院)
父:織田信長
母:生駒吉乃
    1559(1才) 誕生〔10月12日〕
    1563(5才) 家康嫡子・竹千代(5才)と婚約成立(3月2日)
    1566(8才) 母・吉乃没
    1567(9才) 竹千代(9才)と結婚、岡崎城に輿入れ
    1570(12才) 家康、浜松城に移る、竹千代元服、信長の一字を賜わり信康となる
    1576(19才) 長女誕生
    1577(20才) 次女誕生
    1579(22才) 信康(22才)自刃、義母・築山殿暗殺
    1580(23才) 家康に見送られ、岡崎城を出立(2月20日)、美濃に帰る
    1582(25才) 本能寺の変、父・信長(49才)、長兄信忠没
    1590(33才) 次兄信雄、豊臣秀吉により改易、五徳、生駒氏の本領尾張小折に移住
    1603(46才) 徳川幕府成立
    1636(78才) 死去〔1月10日〕
  • 所生の子女
    福(小笠原秀政室)
    久仁(熊姫、本多忠政室)
*徳川家康長男・松平信康の妻。母は生駒吉乃で、同母兄に信忠・信雄がいます。
5才の時、織田・徳川間の同盟の証として、同い年の家康嫡子・竹千代と婚約。4年後、わずか9才で岡崎城に輿入れしました。この岡崎での頃、「尾張御新造さま」と称されました。
1570年に家康は浜松城に移り、岡崎城主になった竹千代は元服して信康となります。成長した信康との間に二女をもうけましたが、男子がありませんでした。
1579年、22才の時、父・信長に書状を送り、信康と姑・築山殿の乱業、及び武田側に内通している旨の十二ヶ条を訴えました。これが元となり信康母子の断罪が家康に申し付けられ、夫・信康は切腹、姑・築山殿は浜名湖畔で刺殺されました。
翌年2月、五徳は家康に見送られ、岡崎を出立。実家へ帰り、しばらくは美濃の岐阜城主となっていた同母兄・信忠の庇護の下暮らしたようです。しかし、本能寺の変で父・信長、兄・信忠ともに戦死したため、次兄の信雄の保護に入り、化粧料として尾張小針・七百貫文を与えられました。この頃より、「岡崎殿」と称されます。小牧・長久手の戦いの講和の条件として豊臣秀吉の人質になる話もありましたが、実現はしませんでした。さらに8年後には信雄が改易され、母の生駒氏の本領であった尾張小折に移り住みました。関ケ原の戦い後は、尾張の清洲城主となった家康四男・忠吉から、所領千七百六十一石を与えられています。晩年は京に住んで没しました。墓所は織田家ゆかりの大徳寺総見院。
岡崎より実家に帰る際、二人の娘は徳川家に残していきました。後に家康の手によって縁付けられ、それぞれの家系は徳川の権勢の下で栄えます。

次女?:冬姫..1558?1561?〜1641
(法名:相応院)
父:織田信長
    (永禄四年[1561]生まれ、次女説を取ります)
    1569(9才) 蒲生氏郷(14才)と結婚
    1582(22才) 父・信長(49才)没、安土城の女房衆、日野城に逃れる
    1584(24才) 義父・賢秀没、夫・氏郷(29才)日野城主となる
    1590(30才) 氏郷、会津若松城主となり、ともに赴く
    1593(33才) 氏郷、朝鮮出兵に伴い滞在していた名護屋において発病
    1595(35才) 夫・氏郷(40才)、伏見の屋敷にて没、長男・秀行(13才)、宇都宮に転封
    1598(38才) 長男・秀行(16才)、徳川家康三女・振姫(19才)と結婚
    1600(40才) 秀行、会津若松藩主となる
    1612(52才) 秀行(30才)没、孫・忠郷が家督を相続
    1634(74才) 孫・忠郷(25才)没、蒲生家断絶
    1641(83才) 死去〔5月9日〕
  • 所生の子女
    秀行(宇都宮城主・会津若松藩主)
    女(前田利政室)
*蒲生賢秀の嫡子・氏郷と結婚。蒲生賢秀は南近江領主だった信長仇敵・六角氏のもと臣下で、1568年織田側に付いた武将であり、嫡子の氏郷はそれ以来、人質として岐阜城にいました。冬姫との結婚は、氏郷の人質身分を解き、国元に帰す許可の意味もありました。時に冬姫は、12才もしくは9才であったといい、12才ならば五徳姫より年長で長女、9才ならば次女ということになります。
それより夫とともに日野城に居住。後に、父・信長がわずか8km程の近さの安土城に移りました。そのため、本能寺の変では、安土城の留守居役を勤めていた義父・蒲生賢秀の機転によって、信長妻子及び女房衆が日野城に避難しました。
氏郷との間に一男一女。夫が会津若松城主になった折にも共に赴きました。しかし、氏郷は40才で没。
豊臣秀吉は美貌の未亡人、冬姫を側室にと望んだが、彼女は尼となって貞節を守り、それが原因で、嗣子の秀行は会津若松九二万石から宇都宮一八万石に転封されたといいます。
秀行は徳川家康の三女・振姫と結婚し、会津若松城主に返り咲いて、二男一女をもうけましたが、30才で早世。その二人の男子、忠郷・忠知も嗣子なく病死し、1634年蒲生家は断絶しました。
冬姫の墓所は京の知恩寺。相応院月凉心英という涼やかな法名を持ちます。

三女?:秀子.. ? 〜1632
(法名:日栄)
父:織田信長
    1578.. この頃、筒井定次と結婚
    1582.. 父・信長(49才)没
    1608.. 夫・定次、改易される
    1632.. 死去〔4月12日〕
*筒井定次の妻。定次は、信長の有力家臣の一人・筒井順慶の養子です。1578年頃、定次と婚礼。
定次は後に、豊臣秀吉より伊賀国二十万石を与えられ、上野城を居城としましたが、1608年、乱行などを理由に改易。妻・秀子のその後は不詳です。

四女?:永姫..1574〜1623
(法名:玉泉院)
父:織田信長
    1581(8才) 前田利長(20才)と結婚(12月)
    1582(9才) 本能寺の変、父・信長(49才)没、前田の本領・尾張荒子に避難する
    1598(25才) 夫・利長(37才)、金沢二代藩主となる
    1605(32才) 利長(44才)、異母弟利常に家督を譲り、高岡城に隠居
    1614(41才) 利長(53才)高岡城にて没、出家(5月)
    ........金沢城下の横山長知の屋敷に入る、ついで城内の西の丸に移る(8月)
    1623(50才) 死去〔2月24日〕
*加賀藩二代藩主・前田利長(前田利家の長男)の妻。
8才で20才の利長と結婚。時に利長の父・利家は能登一国の領主であり、利長は越中の府中城主でした。本能寺の変のわずか半年前で、信長生存中に行なわれた最後の嫁入りと考えられています。
本能寺の変の際、利長・永夫妻は上洛の途中であり、利長は永姫を馬で前田氏の旧領尾張荒子に避難させ、自らは安土城に入ったといいます。
夫・利長が家督を継いで金沢城に入るときも、7年後利長が隠居して高岡城に移ったときも、これに従い共に暮らしました。しかし実子に恵まれず、兄信雄の娘など二女を養女としました。
利長が没すると出家し、金沢に移って、城下の屋敷、ついで城内の西の丸に住みました。西の丸は彼女にちなみ「玉泉院丸」と称されたといいます。
墓所は金沢城下の玉泉寺。

五女?:(報恩院)..1574〜1653
父:織田信長
    1580(7才) 丹羽長秀の嫡子・長重と婚約
    1582(9才) 本能寺の変、父・信長(49才)没
    1585(12才) 義父・長秀没、夫・長重、家督を相続
    1653(80才) 死去〔7月15日〕
*信長重臣の一人、丹羽長秀の嫡子・長重の妻。
1580年、信長の命によって長重と婚約。長重の父、丹羽長秀は信長の異母兄・信広の娘を妻としていたので、織田家と二重の婚姻で結ばれました。しかし実際の婚儀は信長生存中には行なわれなかったらしく、豊臣秀吉が介在したようです。
長重は1585年に、父長秀の領地を継ぎ、若狭・越前・加賀の約百万石の大名となりましたが、豊臣秀吉の策略により次第に減封され、さらに関ヶ原の戦いで西軍に属したため徳川家康に所領を没収されました。しかし、のちに赦免され常陸の一万石となり、さらに陸奥白川十万石に転封されました。
とはいえ、妻は終始江戸の屋敷で暮らし、死去しました。墓所は高輪の泉岳寺。

六女?:(三の丸殿).. ? 〜1603
(法名:韶陽院)
父:織田信長
母:(慈徳院・織田信忠の乳母)
養父:蒲生氏郷
    1582.. 本能寺の変、父信長没
    1598.. 醍醐寺にて花見の宴(3月)、秀吉(62才)伏見城にて没(8月)
    1599.. この頃、元関白・二条昭実(54才)と結婚
    1603.. 死去〔2月5日〕
*豊臣秀吉側室。姉の夫・蒲生氏郷の養女。生年は分かっていませんが、姉達の年齢などから、信長の死没した時には8才以下の幼少であり、秀吉の晩年に側室となったと思われます。
そのため、秀吉側室としての説話は少なく、秀吉からの手紙なども残っておらず、彼女が史実に登場するのは秀吉の没する半年あまり前に開かれた醍醐寺での花見だけです。伏見城三の丸に住んでいたことから、「三の丸殿」と称され、四番目の輿で花見に向かいました。
秀吉死後に公家の二条昭実と結婚しましたが、それからまもなく20代後半で没。
墓所は、京の妙心寺。

女:於振.. ? 〜1643
父:織田信長
母:お鍋の方
    1609.. 夫・水野忠胤、家臣の刃傷事件により改易・切腹
    1610.. この後、伊勢安濃津城主・織田信包家臣、佐治一成と結婚
    1634.. 夫・佐治一成没
    1643.. 死去〔4月9日〕
  • 所生の子女
    (父:水野忠胤) 一男二女
*母はお鍋の方。信長が死没した時には、母の側室となった頃合いから見て、まだ幼少でした。
のちに、尾張小河城主水野忠重の次男・忠胤と結婚。一男二女を生みました。忠胤は関ヶ原の戦い後、一万石の大名となりましたが、1609年家臣の刃傷事件に巻き込まれて改易となり、切腹。
お振は一男二女を水野家に残し、伊勢安濃津城主・織田信包家臣、佐治一成に嫁ぎました。佐治一成の母は信長の妹・お犬の方で、従兄弟に当たりました。一成との子供は伝わりません。
墓所は父母と同じく、大徳寺総見院。

女:(万里小路充房室)..生没年不詳
父:織田信長
    1582.. 本能寺の変、父信長没
    1592.. 長男・孝房誕生
    1597.. 豊臣秀吉より化粧料三百石を与えられる
  • 所生の子女
    孝房
*万里小路充房の妻。孝房を生みました。
織田長清偏の『織田氏系譜』は万里小路充房室を二ヶ所に挙げ、忌日と法名を記しているそうです。「慶長五年十月八日薨ス。法名芳林寿継、源光院ト号ス」「慶長十五年庚戌十月八日薨ス。法名桂岩清香、正覚院殿ト号ス」。

女:(徳大寺実久室).. ? 〜1608
(法名:月明院)
父:織田信長
    1582.. 本能寺の変、父信長(49才)没
    1606.. 長男・公信誕生
    1608.. 死去〔8月7日〕
  • 所生の子女
    公信
*徳大寺実久の妻。公信を生む。
実久は信長死去の翌年の誕生なので、妻の生年も信長の死の前後と思われます。墓所は妙心寺。法名、月明院殿秋岸浄仲大禅尼。

女:鶴..生没年不詳
父:織田信長
    1578荒木村重、信長に背く(10月)、中川清秀、信長側に降る(11月)
    1579.. 荒木村重の有岡城落城し村重脱出(9月)、この頃中川秀政に嫁すか?
*摂津茨木城主・中川秀政の妻。「中川譜」を引用したという『織田家雑録』によると、もと荒木村重の配下であった秀政の父・清秀が、荒木村重謀反に際して信長の説得に応じ謀反に組せず奮戦したことから、これを賞し、子の秀政の室に娘を与えたそうです。しかし、「秀政室早世、子供なし」とも記されているため、詳細は不明。

養女:(菊の方).. ? 〜1571?
(法名:龍勝寺殿)
父:苗木城主 遠山勘太郎
母:(織田信秀女)
    1565.. 武田信玄嫡子・勝頼との縁談が武田側に持ち掛けられる(5月)
    ..... 武田勝頼(20才)と結婚、甲斐に輿入れ(11月13日)
    1567.. この頃、嫡子・信勝を出産
    1571.. 死去〔9月16日〕
  • 所生の子女
    信勝
*信長の姪にして、武田勝頼の正室。
織田・武田の同盟により、信長の養女として信玄の嫡子であった勝頼と結婚。嫡子・信勝を生みましたが、1571年に死去。
法名は龍勝寺殿花蕚春栄大姉。

養女:(さごの方)..生没年不詳
父:播磨龍野城主 赤松某
    1575.. 信長養女となり、権大納言・二条昭実(20才)の側室となる
*信長養女となり、当時の関白二条晴良、長男・昭実(後に関白)の側室となりました。中御門宣教の日記の二月二十八日条に「ハリマノタチノムスメヲ、サゴノ御方、前ハ公方ノ上臈也、今度信長ムスメニシテ二条殿御方御所ヘ進上也」とあります。
二条晴良は信長の右大臣就任などに尽力した親信長の公家でした。ただ、昭実には既に正室を示す「若御台」が存在したため、側室として入ったものと思われます。
後に信長の実娘・三の丸殿が後室として昭実に嫁いだ際、さごの方が存命していたかどうかは不明。