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長女:千姫..1597〜1666 .(号:播磨姫君・東丸様・北之丸様、法名:天樹院・天寿院) 父:徳川秀忠 母:小督(小谷城主浅井長政の娘)
1598(2才) 豊臣秀吉没、秀吉の嫡子・秀頼(6才)との縁組が決まる 1600(4才) 関ヶ原の戦い 1603(7才) 祖父・家康、征夷大将軍に就任(2月) .......豊臣秀頼(11才)と結婚、大坂城に輿入れ 1605(9才) 父・秀忠、征夷大将軍に就任 1615(19才) 大坂夏の陣、大坂城落城、夫・秀頼、義母・淀殿自刃(5月) ........江戸城に帰還(8月) 1616(20才) 祖父・家康没、伊勢桑名城主本多忠政の嫡子・忠刻(21才)と結婚 1617(21才) 播磨姫路城に移る、化粧料十万石を賜わる 1621(25才) 長男・幸千代(3才)没 1623(27才) 父・秀忠、家光に将軍位を譲る 1626(30才) 夫・忠刻(31才)没(5月)、母・小督(53才)没(9月)、落飾(12月) 1628(32才) 娘・勝姫(11才)、鳥取藩主(後に岡山藩主)池田光政(20才)と結婚 1632(36才) 父・秀忠没 1643(47才) 養女・天秀尼(豊臣秀頼の娘)、東慶寺の寺法を巡り加藤明成を訴える 1644(48才) 家光の次男虎松(綱重)の養母となる 1651(55才) 弟・家光没、家綱将軍即位 1666(70才) 死去〔2月6日〕
.誕生の翌年、豊臣秀吉が没し、その遺命として秀頼との縁組が定まりました。関ケ原の戦いの後、祖父家康が将軍宣下を受けた5ヶ月後の七月二十八日に婚儀。伏見城から船で大坂城に輿入れし、大久保忠隣が付き従いました。大坂側では浅野幸長が迎えました。時に千姫7才、秀頼は11才。 .12年間を大坂城にて過ごしましたが、秀頼との間に子女はなし。 .1615年、五月七日の大坂城落城に先立ち、城を脱出。秀頼と姑・淀殿の助命を願い出たといいますが、許されませんでした。八月に江戸に帰りました。 .翌年9月本多忠刻と結婚。本多忠刻の母は、家康の長男・松平信康の次女熊姫です。忠刻は翌年、播磨姫路城に移り、千姫は「播磨姫君」と称されました。化粧料として十万石が与えられ、一男一女にも恵まれました。 .しかし、嫡子・幸千代は3才で没。夫・忠刻も5年後に続いて没しました。千姫は一女勝姫を連れて江戸に帰り、同年12月6日落飾。 .竹橋御殿に住み賄料一万石を給され「東丸様」、のちに飯田町御殿に移り「北之丸様」と称されました。家光の長姉として大奥に隠然たる力を持ったといい、家光次男・綱重の養母にもなりました(綱重は家光41才の時の子で『四十二のふたつ子』を忌むという風習から江戸城外で養育された)。 .70才で死去。墓所は小石川の伝通院。 |
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次女:珠姫..1599〜1622 .(子々姫、法名:天徳院) 父:徳川秀忠 母:小督(小谷城主浅井長政の娘)
1600(2才) 金沢藩主前田利長の養嗣子・猿千代(利常・8才)と婚約 1601(3才) 江戸城を出立し金沢に向かう、前田利光(利常・9才)と婚儀 1605(7才) 夫・利常(13才)、金沢藩主となる 1614(16才) 長女・亀鶴姫を生む、先代藩主利長の遺領より能登三万石を伝領 1615(17才) 嫡子・犬千代(光高)誕生 1622(24才) 死去〔7月3日〕
.加賀金沢藩主前田家との均衡のため、前田利家夫人にして藩主の母・芳春院が江戸城に人質として来る代わりに、藩主利長の養嗣子(実は異母弟)の猿千代との結婚が決まりました。翌年婚約。 .さらに翌年珠姫は江戸を出立し、九月金沢城に入輿。徳川家の重臣・大久保忠隣と青山忠成が送り、金沢では藩主利長自ら手取川まで出迎えました。時に3才。 .16才で長女・亀鶴姫を生んだのを始めとして、三男五女をもうけました。金沢城で死去、享年24才。金沢小立野に葬られ、同地に天徳院が建立されました。 .長男・光高は金沢四代藩主となり、次男・利次は分藩の富山藩主、三男・利治は大聖寺藩主となりました。娘たちもそれぞれ名門の正室となりました。ちなみに京の名邸・桂離宮は、四女・富姫が八条宮(桂宮)智忠親王に輿入れした際に改築されたものです。 |
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三女:勝姫..1600〜1671 .(号:高田殿、法名:天崇院) 父:徳川秀忠 母:小督(小谷城主浅井長政の娘)
1605(9才) 父・秀忠、征夷大将軍に就任 1609(10才) 越前北ノ庄城主・松平忠直(15才)と縁組 1611(12才) 松平忠直(17才)と婚儀、越前に輿入れ 1615(16才) 嫡子・仙千代(光長)を生む 1623(24才) 夫・忠直(29才)、豊後国萩原に配流、勝姫、越前より江戸に移る(2月) 1624(25才) 長男・仙千代(光長・10才)北ノ庄藩から越後高田藩に移封 1626(27才) 母・小督(53才)没 1629(30才) 仙千代(15才)元服、光長となる 1630(31才) 長女・亀姫(14才)、秀忠養女となり高松宮好仁親王と結婚、寧子と改名 1632(33才) 父・秀忠没、忠直(37才)配流先を豊後国津守に替えられる 1634(34才) 長男・光長(20才)、母勝姫とともに高田藩に入る ........勝姫のおみやげとして高田市民の地子銭(宅地税)を免除する 1650(51才) 忠直(56才)、配流地にて没 1651(55才) 弟・家光没、家綱将軍即位 1653(54才) 長女・亀姫(1638年に好仁親王と死別)、京より越後高田に移る 1656(57才) 孫・明子女王(亀姫の娘)、後西天皇の妃として女御宣下を受ける 1671(72才) 死去〔2月21日〕
.9才の時、北ノ庄城主松平秀康の子で従兄にあたる忠直と縁組。2年後の九月五日、土井利勝が付き従い江戸を出立。十一日駿府で家康の饗応を受け、二十六日北ノ庄に到着。二十八日婚儀を行いました。 .しかし、1623年、夫・忠直は不行跡を理由に豊後国萩原に配流されました。勝姫は忠直との間に生まれた一男二女を伴って、江戸に帰り城内で養われました。のちに牛込川田ヶ窪に居宅を賜わり移居。「高田殿」と称されました。 .一男・光長は、はじめ父の後を継ぎ北ノ庄藩(後の福井藩)主となりましたが、翌年叔父の忠昌と国替えし越後高田藩主となりました。5年後元服し、1634年に母の勝姫と伴にお国入りをしました。その際、勝姫の「おみやげ」として高田市民の地子銭(宅地税)が免除され、この特権は明治維新まで続きました。名君でしたが、のちに一人息子・綱賢を失い、越後騒動(継嗣問題)によって改易されます。 .二人の娘は、勘気を蒙った父を考慮してか大名家には嫁がず、京の宮家・公卿に嫁ぎました。長女・亀姫(入輿後に寧子と改名)の生んだ明子女王は、後西天皇の女御となります。 .72才で死去。子の光長の領地である越後高田の長恩寺に葬られました。 .勝ち気な性格であったらしく、孫の福井藩主松平光通夫人・国姫の世継ぎについて干渉したといいます。光通に嫁いだ国姫は二女を生みましたが男子なく、側室に庶子権蔵がいました。勝姫はこれを激しく糾弾し、ついには家督を継がすべき男子はいない旨の起請文を取り付ける騒ぎとなりました。1671年国姫は自ら命を絶ち、権蔵は江戸に逃れ叔父の元に身を寄せて糸魚川藩の祖となり、3年後光通は庶弟昌親に家督を継がせるとの遺言を残し自害しました。 |
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四女:初姫..1602〜1630 .(法名:興安院) 父:徳川秀忠 母:小督?(小谷城主浅井長政の娘)
1605(9才) 父・秀忠、征夷大将軍に就任 1606(5才) 若狭小浜城主京極高次の嫡子・忠高(14才)と結婚 1609(8才) 義父・京極高次没、夫・忠高(17才)家督を継ぐ 1623(22才) 父・秀忠、家光に将軍位を譲る 1626(25才) 母・小督(53才)没 1630(29才) 死去〔3月4日〕 .生後間もなく、母小督の姉である京極高次夫人・お初の養女として引き取られ、高次の嗣子・忠高の正室となることが決まりました。 .5才で14才の忠高と結婚。子女はなし。 .江戸にて死去。享年29才。墓所は江戸小石川の伝通院。 |
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五女:和子..1607〜1678 .(後水尾天皇中宮、東福門院) 父:徳川秀忠 母:小督(小谷城主浅井長政の娘)
.生後程なく入内の話が持ち上がり、14才で後水尾天皇に入内、女御宣下。内裏には阿茶局が母代わりとして付き従いました。4年後中宮に冊立。百数十年絶えて久しい中宮位の復活でした。 .天皇との間に二男五女を生みましたが、男子二人はともに早世。1629年、紫衣事件などから朝廷側の独断によって後水尾天皇は退位、興子内親王に位を譲りました。それに伴い、国母として女院号を受け、東福門院と号しました。翌年幕府は新帝を事実上承認し、即位式が挙行されます。 .72才で死去。京の泉涌寺に葬られました。和子と後水尾上皇との結婚生活は58年に及び、和子死去に際して、83才の上皇は呆然としたさまであったといいます。 |
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