家康を育てた女性たち

母:於大..1528〜1601
(法名:伝通院)
父:三河国刈谷城主 水野忠政
母:お富の方(大河内元綱の養女)
    1541(14才) 岡崎城主・松平広忠(17才)と結婚、岡崎城に輿入れ
    1542(15才) 父・水野忠政没、兄信元が家督を継ぐ(7月)
    ........竹千代(家康)を生む(12月26日)
    1544(17才) 兄・水野信元が織田氏につき、於大は広忠と離縁、刈谷城に帰される
    154?..... 尾張阿古比城主・久松俊勝と結婚
    1547(20才) 竹千代が人質として尾張に入る、衣服などを密かに送る
    1549(22才) 前夫・広忠(24才)没、竹千代(8才)、人質交換により駿府に送られる
    1560(33才) 元康(家康)阿久比城に立ち寄り、於大と再会
    1587(60才) 夫・久松俊勝没、出家
    1602(75才) 京の伏見城に入り家康や秀吉未亡人高台院と会う
    ........伏見城にて死去〔8月28日〕
  • 所生の子女
    (父:松平広忠) 家康
    (父:久松俊勝) 康元(下総関宿藩主)、勝俊、定勝(伊勢桑名藩主)
    .........多却姫(桜井松平忠正室、忠吉室、保科正直室)、 松姫(戸田松平康長室)、他二女
*家康の生母。14才で岡崎城主・松平広忠の正室となり、翌年男子、後の家康を生みました。
母・お富の方は広忠の父、清康の継室だったので、於大の方と広忠は義理の兄妹にも当たります。
しかし、家康の生まれる5ヶ月前、松平一族に好意的であった父・水野忠政が没し、異母兄・信元が家督を継いでいました。2年後、兄・信元が今川氏に背いて織田氏についたため、家康を残して広忠と離縁、刈谷城に送られました。この際、気性の荒い兄が輿を護送する松平家臣を襲うと予測し、輿を地元の民に委ねさせて未然に防いだといいます。
その後、久松俊勝と結婚。三男四女を生みました。男子三人は後に、家康の弟として松平姓を名乗ります。
桶狭間の戦いの直前、家康(元康)は阿久比城に立ち寄り、16年ぶりに於大と再会しました。同年、今川義元の戦死・桶狭間の戦いの敗戦に乗じて、家康は岡崎城に帰還。
夫・久松俊勝の死没により出家。晩年は家康の元にあって手厚く遇され、最期に上洛し、京の伏見城にて死去しました。
死後、従一位を追贈。墓所は江戸小石川の伝通院。

祖母:お富..1492〜1560
(お留、法名:華陽院)
父:青木 式宗?・宮善七?
養父:大河内 元綱
    1509(18才) 三河国刈谷城主・水野忠政と結婚か?
    1528(37才) 娘・於大誕生
    1530(39才) この頃、水野忠政と離縁、三河国岡崎城主・松平清康(20才)と結婚
    1535(44才) 清康(25才)暗殺される
    1541(50才) 於大、松平広忠と結婚
    1542(51才) 竹千代(家康)誕生
    1549(58才) 竹千代(8才)、人質として駿府城に送られる
    1555(64才) 竹千代(14才)元服、元信となる
    1560(69才) 死去〔5月6日〕
  • 所生の子女
    (父:水野忠政) 忠守、忠分、忠重?、 於大(岡崎城主松平広忠室、阿久比城主久松俊勝室)
    (父:松平清康) 信康、 女(松平康高室、酒井忠次室)
*家康の母・於大の方の生母。また家康の祖父・松平清康の継室でもあります。
初め刈谷城主・水野忠政に嫁ぎ、於大の方をはじめ、三男一女を生む(しかし三男忠重は1541年生まれなのでかなり疑問)。忠政と離縁後、養家大河内家に帰り、松平清康の正室となりました。清康との間には一男一女。暗殺によって清康が没すると、続いて星野秋国・菅沼定望・川口盛祐と結婚し、いずれも死別したといい、通算で五回の結婚となります。
晩年は出家し駿府にいて、家康が8才より駿府城下で人質として過ごすようになると、養育に当たったのが祖母のお富の方といわれます。出家後の号は「源応尼」。
桶狭間の戦いの直前、元康(家康)出陣中に、駿府の大河内政房邸にて死去。墓所は駿府の華陽院。享年69才というが、夫・清康の年齢などから、やや疑わしい。

大叔母:お久.. ? 〜1561
(久子、法名:随念院)
父:三河国岡崎城主 松平信忠
代父:松平清康
    15??.. 大給松平家の乗勝と結婚、嫡子親乗を生む
    1524.. 夫・乗勝没
    1525.. 三河国足助城主 鈴木重政の子・重直と結婚(のち離縁)
    1535.. 兄・清康没
    1542.. 家康(竹千代)誕生
    1543.. 竹千代生母・於大離縁により刈谷城に帰る、竹千代の養育に当たる
    1547.. 竹千代(6才)人質に出され、岡崎を離れる
    1560.. 元康(家康・19才)、岡崎城に帰還する
    1561.. 死去〔8月2日〕
  • 所生の子女
    (父:松平乗勝) 親乗
*家康の祖父・松平清康の妹。
はじめ、兄の養女となり、松平一族の一つ・大給松平家の乗勝と結婚し、嫡子親乗を生みました。乗勝が没した翌年5月、清康は足助城を攻めて鈴木重政を降伏させ、その子重直とお久を結婚させました。しかし、後に重直が松平に背いたため離縁。岡崎城に帰されました。
家康の誕生時には岡崎に帰っていて、3才で生母と引き離された家康を6才で人質に出されるまでの3年間養育したといいます。
墓所は岡崎の随念寺。
家康の清康びいきはここら辺から来ているのかもしれません。

伯母:(妙春尼)..1514〜1598
父:三河国刈谷城主 水野忠政
    1532(19才) 松平家重臣・石川清兼と結婚
    1543(30才) 竹千代生母・於大離縁により刈谷城に帰る
    1560(47才) 元康(家康・19才)、岡崎城に帰還する
    1564(51才) 三河一向一揆、家康に加担者の助命を嘆願
    1578(65才) 夫・石川清兼没、出家
    1598(85才) 岡崎にて死去〔2月7日〕
*水野忠政の娘で、家康生母・於大の姉。松平広忠の重臣・石川清兼の妻。
竹千代(家康)3才から6才まで、生母於大と別れてから人質として送られるまでの期間、於大に代わって養育に当たったといいます。
夫と死別の後、出家して「妙春尼」と称しました。
浄土真宗大谷派の教如と交際が深く、三河一向一揆鎮圧ののち加担者赦免を家康に嘆願して許され、寺院の復興に尽くしました。また、念持仏と懐剣を本証寺(愛知県安城市)に託しました。

叔母:(碓氷殿).. ? 〜1612
(法名:光樹院)
父:三河国岡崎城主 松平清康
母:お富の方(大河内元綱の養女)
    1535.. 父・清康(25才)没
    1545.. この頃、松平政忠と結婚、嫡子・康忠誕生
    1560.. 夫・松平政忠、桶狭間の戦いにて没
    1564.. この頃、酒井忠次(38才)と結婚、嫡子・家次誕生
    1588.. 夫・忠次(62才)隠居し、長男・家次(25才)家督を継ぐ
    1590.. 長男・家次、下総碓井城主となる
    1596.. 夫・忠次(70才)没
    1612.. 死去〔11月27日〕
  • 所生の子女
    (父:松平政忠) 康忠
    (父:酒井忠次) 家次(越後高田藩主)、康俊
*松平清康の娘。母はお富の方なので、家康にとっては二重の叔母に当たります。
はじめ、松平一族の一つ、長沢松平家の康高(政高)と結婚。嫡子・康忠を生みました。
康高の死後、松平家重臣・酒井忠次と再婚。家次・康俊を生む。酒井忠次は徳川家の筆頭家老的は立場であり、徳川四天王の一人に数えられます。長男・家次が1590年家康の関東入国の際、下総碓井城主となっており、「碓氷殿」の通称はそこからでしょうか。
墓所は三河国宝蔵寺。

継母:真喜姫.. ? 〜1571
(号:田原御前)
父:三河国田原城主 戸田康光
    1545.. 松平広忠(20才)と結婚
    1549.. 夫・広忠(24才)没
    1560.. 元康(家康・19才)、岡崎城に帰還する
    1571.. 死去〔3月30日〕
*於大の方と離縁した家康の父・広忠が新たに迎えた正室。家康の養育には大叔母・お久の方が担っていたと伝えれれるので彼女と会う機会は少なかったか。広忠との間に子女なし。
広忠が家臣に殺害された後も岡崎に留まり、同地で死去。墓所は岡崎の竜梅院。
ちなみに、竹千代(家康)が今川に人質として送られる際、離反して名古屋の織田家に送ったのは彼女の父戸田康光です。