家康−正室

正室:(築山殿)..1542?〜1579
(別称:瀬名姫、法名:清池院・西来院)
父:関口親永
母:(今川義元の妹)
    1557(16才) 駿府城にて松平元信(家康・16才)と結婚
    1558(17才) 元信、元康と改名
    1559(18才) 信康(竹千代)誕生
    1560(19才) 亀姫誕生(3月)
    ........桶狭間の戦い(5月)、元康、岡崎城に入る(築山殿ら駿府城)
    1562(21才) 元康、織田信長と同盟を結ぶ
    1563(22才) 人質交換により、岡崎城に入る、元康、家康と改名(7月)
    1567(26才) 竹千代(信康・9才)、織田信長の女・五徳と結婚
    1570(29才) 家康、浜松城に移る(築山殿は岡崎にて別居)
    1576(35才) 亀姫(17才)、奥平信昌と結婚
    1579(38才) 岡崎から浜松に行く途中、佐鳴湖の辺りにて殺害される
  • 所生の子女
    信康(竹千代、岡崎城主)
    亀姫(美濃加納城主 奥平信昌室)
*父が駿河国瀬名郷を領したため「瀬名姫」と号するといいます。「築山殿」は岡崎城の築山の近くに居所があったための称といいます。
今川義元の姪であり、義元の養女となって駿府にいた家康(元康)と結婚しました。嫡子竹千代、次いで亀姫を生みましたが、亀姫を生んだ年、桶狭間の戦いにおいて今川義元が戦死。夫の家康はこの機に乗じて岡崎城に入り、さらに2年後には今川氏を見限って織田信長と同盟を結びました。これにより、父・瀬名親永は切腹。
翌年、人質交換により、二人の子とともに岡崎に入りました。家康が浜松城に移った後も、そのまま岡崎に留まりました。この時の岡崎城主は長男・信康。
しかし、信康の室・五徳の書状が元となり、築山殿・信康母子に武田氏内通の嫌疑がかけられ、織田信長の命の下、家康は信康を謹慎させました。築山殿は信康について家康に弁明するため浜松城に向かう途中、8月、佐鳴湖ちかくで家康の家臣に刺殺されました。信康も追って9月に切腹します。
築山殿について、後世、素行・性格の悪さが書かれましたが、家康の妻殺しの罪を和らげるためとも考えられるため本当かどうかは疑問です。
墓所は浜松の西来院。

正室:旭姫..1543〜1590
(朝日方、号:駿河御前、法名:南明院)
父:筑阿弥?
母:なか(大政所)
    1574(32才) 秀吉、近江長浜城を築城、この頃中村より長浜城に移る
    1585(43才) 秀吉、従一位、関白となる
    1586(44才) 佐治日向守と離縁
    ........滝川雄利らが使者となり旭姫と家康との縁組みを伝える(2月)
    ........家康の臣・榊原康政が遣わされ、大坂城にて結納(4月13日)
    ........浜松城にて婚儀(5月14日)
    ........家康に伴い、駿府城に移る(12月)
    1588(46才) 母大政所の見舞いのために上洛、そのまま駿河に帰らず留まる
    1590(48才) 聚楽第にて死去〔1月14日〕
*「豊臣の女たち」−「秀吉の母と姉妹」の項に同じ。