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側室:(西郡局).. ? 〜1606 父:(三河国宝飯郡西郡城主 鵜殿氏の一族)
..... 鵜殿氏は家康(21才)に仕える事となり、それに伴い岡崎城の奥勤めとなる 1565.. 督姫誕生 1570.. 家康、浜松城に入る 1583.. 督姫(19才)、北条氏直と結婚 1590.. 小田原城落城(7月)、家康、江戸城に入る(8月) 1591.. 娘婿・北条氏直没 1595.. 督姫(31才)、池田輝政と結婚 1603.. 家康、征夷大将軍となる 1606.. 伏見城にて急死〔5月14日〕
.1565年に家康の次女、督姫を生む。 .晩年まで家康に仕え、1606年、伏見城で急死。京の一条本禅寺に葬られました。 |
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側室:於万..1548〜1619 .(号:小督局、法名:長勝院) 父:(諸説有り)
1576(29才) この頃、岡崎城にて、家康初めて於義丸と対面 1584(37才) 於義丸(11才)、豊臣秀吉の養子となる、元服し秀康と改名 1590(43才) 秀康(17才)、結城晴朝の養女・鶴姫と結婚し、結城秀康となる 1600(53才) 関ヶ原の合戦、秀康、越前北ノ庄・六十七万石領主となる 1603(56才) 家康、将軍宣下される 1607(60才) 秀康(34才)、北ノ庄にて没、於万、家康の許しを得ず出家 1611(64才) 孫・忠直、将軍秀忠の三女・勝姫と結婚 1616(69才) 家康(75才)、駿府城にて没 1619(72才) 越前北ノ庄にて死去
.妊娠中にある理由により浜松城より去らねばならず、城外の敷智郡有富見村にて双子(片方は生後間もなく早世)を産みました。育った男子・於義丸は、3才になってから家康と対面したといわれます。 .於義丸は豊臣秀吉の養子となり「羽柴秀康」を名乗り、秀吉に実子・鶴松が生まれると、さらに結城晴朝の養女・鶴姫の婿養子となり「結城秀康」を名乗りました。のちに松平氏を名乗り、関ケ原の合戦後越前北ノ庄に封じられました。家康子息の中で年長ながら家督を継がない、という特異な立場にありました。 .秀康が北ノ庄城にて没すると、生母お万の方は嘆きのあまり、家康の許しを得ずに髪を下ろし、出家しました。しかしこの事に咎めはありませんでした。 .長勝院と号し、72才で死去。越前北ノ庄(福井市)の孝顕寺に葬られました。 |
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側室:お愛..1562〜1589 .(お丁・於相・於桐・昌子、号:西郷局、法名:宝台院・竜泉院) 父:戸塚忠春 母:(西郷正勝の女) 養父:服部平太夫正尚(母の再嫁先)・西郷清員(伯父)
1571(10才) 夫・西郷義勝戦死、養父・服部平太夫の館に帰る 1578(17才) 西郷清員の養女となり浜松城の奥勤めとなる 1579(18才) 秀忠(長丸)誕生 1580(19才) 忠吉(於次)誕生 1581(20才) 次男・於次(2才)、東条松平氏の跡継ぎと定められる 1585(24才) 家康、駿府城に移る 1586(25才) 家康、豊臣秀吉の妹・旭姫と婚儀 1589(28才) 駿府城にて死去〔5月19日〕
.父は戸塚忠春、母は西郷正勝の娘。早くに父が戦死し、母は服部平太夫正尚(蓑正尚とも)と再婚しました。家康に仕える以前、祖父・西郷正勝の嫡孫で従兄弟である西郷義勝と結婚し、義勝が武田家臣・秋山晴近との戦いで討死したため養父・服部平太夫の館に身を寄せたといいますが、享年から数えると義勝の戦死した時わずか10才です。 .1578年、17才の時、伯父・西郷清員の養女として浜松城の奥勤めの侍女になりました。養父の館を訪れた家康の目にとまったためと伝えられます。翌年家康三男の秀忠を、さらに翌年ついで四男の忠吉を生みました。「西郷局」と号しました。温和誠実な性格で、家康の信頼も厚かったといいます。 .28才で駿府城にて病没。墓は駿府の竜泉寺(後の宝台院)に葬られました。一説に松平家忠(深溝松平)の家臣稲吉兵衛に殺されたともいわれます。 .強度の近眼であったらしく、とりわけ瞽女(盲目の女性)に同情を寄せ、常に衣服飲食を施して生活を保護していました。そのため西郷局が若くして死去すると、瞽女たちは連日、寺門の前で彼女の為に後生を祈ったといいます。 .後に、徳川2代将軍秀忠の生母として従一位を追贈。宝台院殿松誉貞樹大姉と謚名されました。竜泉寺も金米山宝台院と改められ、三〇〇石が寄進されました。 |
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側室:須和..1555〜1637 .(号:阿茶局・神尾一位・一位尼、法名:霊光院) 父:武田氏家臣 飯田直政
1574(20才) 長男・猪之助を生む 1577(23才) 夫・神尾忠重没 1579(25才) 浜松城に召され、家康(38才)の側室となる 1584(30才) 小牧・長久手の戦いの陣中にて懐妊したが、流産する 1589(35才) 西郷局の死により竹千代(秀忠・11才)・於次(忠吉・10才)養育に当たる 1603(49才) 家康、征夷大将軍となる 1614(60才) 方広寺鐘銘事件、駿府にて淀殿乳母・大蔵卿らに対面する(10月) ........大坂冬の陣、和議の使者となり交渉にあたる(11月) 1616(62才) 家康(75才)没 1621(67才) 徳川秀忠の五女・和子の入内に、母代わりとして付き従う 1624(70才) 女御和子の懐妊により上洛、秀忠将軍位を家光に譲る 1632(78才) 秀忠(54才)没、出家・剃髪する 1637(83才) 死去〔1月22日〕
.父は武田氏家臣であり、後に今川氏家臣となった飯田直政。直政は武田信玄と今川義元が和睦した時、信玄の許しを得て今川氏の家臣となりました。須和もはじめ、19才で今川氏の旧家臣・神尾孫兵衛忠重と結婚。一子・猪之助を生みました。しかし夫・忠重は4年後に没し、23才の須和は猪之助を抱えて未亡人となりました。2年後家康に召し出され、側室となります。 .信頼厚く、常に家康の側近くにあって、小牧・長久手の戦いでは陣中において流産しました。以後子供に恵まれせんでしたが、西郷局の死没にあたって遺児の秀忠・忠吉の養育にあたったといいます。 .才知に長けていたため、家康の奥向きを統制したばかりでなく、隠密の用向き、奥よりの執政の伝達を行ったといいます。外交な働きも見せ、方広寺鐘銘事件で駿府にやってきた大蔵卿局らに会いました。また大坂冬の陣には家康に従って従軍し、本多忠純とともに徳川方として和議の交渉にあたり、交渉の後、板倉重昌とともに大坂城に赴き、豊臣秀頼母子の誓紙をとるなど働きました。 .家康の没した時、側室はすべて落飾して院号を名乗りましたが、阿茶局のみは落飾を許されませんでした。江戸城竹橋に邸地を賜わり、中野村に賄料三〇〇石を受けます。 .二代将軍秀忠の娘、和子の入内に際して母代わりとして上洛。後水尾天皇より従一位を与えられ、「神尾一位」「一位の尼」と称されました。和子の懐妊の際にも上洛し、身の回りの世話をしました。 .秀忠の没後に剃髪し「雲光院」と号す。83才で死去し、江戸馬喰町の雲光院に葬られました。 |
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側室:お竹.. ? 〜1637 .(法名:良雲院) 父:武田氏家臣 市川昌永か?
1598.. 振姫(19才)、宇都宮藩主(後に会津若松藩主)蒲生秀行と結婚 1615.. 振姫(37才)、和歌山藩主(後に広島藩主)浅野長晟と再婚 1616.. 家康(75才)没(4月)、振姫(38才)没(8月) 1637.. 死去〔3月12日〕
.父は諸説ありますが、甲斐武田家ゆかりの側室。武田家家臣市川昌永の娘とも、武田氏で父の名は未詳とも伝えられます。1580年、振姫を生みました。 .振姫に先立たれた後、1637年に死去。墓所は浅草の西福寺。 .振姫の生母は、下山殿お都摩であるともいいます。 |
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側室:お都摩..1565〜1591 .(号:下山殿、法名:長慶院・妙真院) 父:武田氏家臣 秋山虎康 養父:穴山信君(梅雪)
........本能寺の変後、旧武田領が家康支配下に入る ........この後、家康(41才)の側室となる 1583(19才) 信吉(万千代)誕生 1591(27才) 下総国小金にて死去〔10月6日〕
.家康の23才ほど年下。五男・信吉の生母。 .所生の信吉は、母が武田氏に縁深い家門であったために武田姓を継ぎ、「武田信吉」と名乗りました。 .信吉(万千代)がまだ下総国小金(千葉県松戸市)の領主であった時、同地にて27才で死去。同国平賀の本土教寺に葬られました。 |
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側室:お牟須.. ? 〜1592 .(法名:正栄院) 父:武田氏家臣 三井吉正
..... この年、奥勤めに上がり、家康(41才)の側室となる 1592.. 朝鮮派兵に九州・肥前名護屋城詰となった家康に供奉する ..... 名護屋において出産するが、難産により母子ともに没(3月) .10年後の1592年、朝鮮派兵に際して派兵基地である肥前名護屋城詰を命じられた家康に供奉。お牟須のほか何人かの側室が従っていました。3月、同地にて出産しましたが、難産により母子ともに没。 .唐津の浄泰寺に葬られたといいますが、明らかではありません。 |
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側室:お茶阿.. ? 〜1621 .(お久、法名:朝覚院) 父:(遠江国金谷の農家)
1593.. 長沢松平家の康直が嗣子なく没したため、松千代(2才)が養子となる 1598.. 次男・松千代(7才)没(異説あり)、辰千代(7才)が代わって長沢松平家を継ぐ 1599.. 辰千代(8才)、伊達政宗の長女・五郎八姫(5才)と婚約 1602.. 辰千代(11才)元服し忠輝と改名、信濃川中島十四万石を与えられる 1606.. 忠輝(15才)、五郎八姫(12才)と結婚 1610.. 忠輝(19才)、越後福原に所領を加えられ六十万石あまりとなる 1615.. 大坂夏の陣、忠輝、家康の不興を買い蟄居を命じられる 1616.. 家康(75才)没、出家し江戸に移る(4月)、忠輝、領地没収・伊勢に配流 1621.. 死去〔6月12日〕
.はじめ、農家兼鍛冶屋の八蔵の妻。一女・おはちをもうけました。しかし夫が口論の末殺されたことから、おはちを連れて鷹狩に来た家康に犯人を直訴し、その時家康の目にとまったといいます。 .1592年、江戸城にて辰千代(忠輝)・松千代の双子を生みました。松千代は早世(松千代は2年後の生まれで6才にて没したともいう)。辰千代は成人して忠輝となり、越後高田六十万石余りの藩主になりました。しかし、大坂夏の陣において軍功なく、秀忠の旗本を斬殺したことなどから家康の死後領地を没収され、罪を許されぬまま信濃諏訪にて93才で没しました。 .お茶阿は聡明で晩年の家康の側近くに仕え、家康が発病してから没するまでの間も、終始看護を担い死に水をとったといます。家康死後に落飾し「朝覚院」と号しました。その後、駿府城から江戸に移って死去。墓所は江戸小石川の宗慶寺。 .前夫との間の娘・おはちは、家康の声掛かりで花井遠江守と結婚しました。後に遠江守は忠輝の傅役となって、忠輝が越後高田藩主となると糸魚川三万石を領しましたが、忠輝の改易配流後に切腹しました。 |
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側室:(間宮康俊の女)..生没年不詳 父:北条氏家臣 間宮康俊
..... この後、家康(49才)の側室となる 1595.. 伏見城にて松姫を生む
.父は北条氏家臣・間宮康俊。小田原の陣で父が討死し、国替えによって旧北条領に家康が入った後に奥勤めに上がったものと思われます。1595年、京の伏見城において松姫を生む。生母の以後の略歴は不詳。一説に松姫の生母はお茶阿の方であるともいいます。 .所生の松姫は4才で早世しました。 |
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側室:お梶..1578〜1642 .(お八・お加知・お勝、法名:英勝院) 父:水戸城主 江戸但馬守 養父:太田康資
1607(30才) 市姫を生む 1610(33才) 市姫(4才)没 1616(39才) 家康(75才)没、剃髪 1634(53才) 鎌倉扇ヶ谷に英勝寺を建立、養子頼房の娘を住職とする 1642(65才) 死去〔8月23日〕
.実父は水戸城主の江戸但馬守といわれます。江戸城主太田道灌の孫・康資の養女となりました。家康が関東に入った1590年、13才の時に見初められ、側室になったという。以後寵愛され、戦陣にも供奉しました。 .のちに松平(大河内)正綱に嫁しましたが、1ヵ月ほどで家康の元に返りました。 .30才の時、駿府城にて家康の末子・市姫を生む。市姫は伊達政宗の嫡子・忠宗と婚約が調いましたが、4才で早世しました。嘆き悲しむのを慰めるため、家康の十一男・頼房の養育を任されたほか、家康外孫で市姫の後に忠宗と婚約した振姫、結城秀康の次男忠昌の養育にあたりました。 .家康の没後、剃髪。53才の時、鎌倉に英勝寺を建立しました。 .65才にて没。はじめ瑞松院に葬られ、のちに英勝寺移されました。 |
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側室:お仙.. ? 〜1619 .(法名:泰栄院) 父:宮崎泰景
1619.. 駿府で死去 .駿府で死去し、藤枝宿の浄念寺に葬られましたが、のち駒場村の浄久寺に移されました。 |
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側室:お亀..1573〜1642 .(法名:相応院) 父:石清水八幡宮社人 清水宗清
1595(23才) 伏見城にて仙千代を生む 1600(28才) 仙千代(6才)没、義直(五郎太)を生む 1603(31才) 五郎太(義直・4才)、甲斐二五万石を与えられる 1607(35才) 義直(8才)、尾張藩六十一万九千石を与えられる 1615(43才) 義直(16才)、広島藩主浅野幸長の娘・春姫と結婚 1616(44才) 家康(75才)没 、落飾 1642(70才) 名古屋城にて死去〔9月16日〕
.夫の死後奥勤めに入り、27才の時、家康の八男・仙千代を生む。しかし、仙千代は6才で早世。関ヶ原の戦いを挟んで同年の11月、九男・義直を生む。義直は後に、御三家尾張藩の祖となります。 .父の清水宗清は、八幡宮の修験者である身上をかんがみて密かに還俗され、名を清水八右衛門と改めて三千石を賜わりました。 .前夫との子・竹越定信は、家康の小姓となり、後に義直の尾張入府の際、尾張藩付家老となりました。子孫も代々、付家老の職に就きました。 .名古屋城にて死去。享年70才。名古屋に妙亀山相応寺を創建して葬られました。 |
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側室:お万..1580〜1653 .(号:蔭山殿、法名:養珠院) 父:上総国大多喜城主 正木邦時 母:(北条氏尭の娘) (養父)北条氏家臣 蔭山氏広
1594(15才) 家康(53才)の側室となる 1602(23才) 頼宣(長福丸)を生む 1603(24才) 頼房(鶴千代)を生む、長福丸(2才)に常陸水戸二十万石が与えられる 1606(27才) 鶴千代(4才)に下総下妻十万石が与えられる 1609(30才) 頼宣(8才)駿河・遠江五十万石に、鶴千代(7才)水戸二十五万石に移封 1616(37才) 家康(75才)没 、落飾 1619(40才) 頼宣、紀伊五十五万石に移封 1653(74才) 紀伊家江戸屋敷にて死去〔8月22日〕
.23才で家康の十男・頼宣を、翌年、十一男・頼房を生む。それぞれ御三家の和歌山藩・水戸藩の祖となりました。 .お万の方は熱心な日蓮宗の信者であったといい、甲斐国に本遠寺を建立しました。 .頼宣の紀伊家江戸屋敷にて死去。池上本門寺に葬られました。 |
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側室:お夏..1581〜1660 .(法名:清雲院) 父:長谷川藤直
1614(34才) 大坂冬の陣、本陣に供奉する 1616(36才) 家康(75才)没、落飾 1655(75才) 甥・広直の孫、藤該を養子に迎え、一家を創立する 1660(80才) 死去 .家康との間の子女はないものの、晩年に側近として仕え、駿府城にも伴われる。大阪冬の陣では本陣に供奉し、夏の陣では伏見城に留守居をしました。家康の信任が厚かったといいます。 .家康の死没により落飾。駿府から江戸三の丸脇の屋敷に移り、武蔵国中野に五百石を賜わる。のち小石川御門内邸に移りました。 .甥の和歌山藩士・五郎兵衛広直の孫、三郎左衛門藤該を迎えて養子とし、一家を創立しました。 .墓所は江戸の伝通院。伊勢山田に清雲院をつくり、お夏寺とも呼ばれます。 |
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側室:お梅..1586〜1647 .(法名:蓮華院) 父:青木一矩
1616(31才) 家康(75才)没 1622(37才) 本多正純、所領を没収され配流、出家、駿府に移る 1647(62才) 伊勢山田にて死去〔9月11日〕 .本多正純は宇都宮釣天井事件により、将軍秀忠の勘気に触れ、宇都宮十五万石を没収され配流されました。これにより、お梅の方は出家。駿府、京都、伊勢山田と転々とし、伊勢山田にて死去。 |
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側室:お六..1597〜1625 .(法名:養儼院) 父:黒田直陣
1614(18才) 大坂冬の陣、陣中に供奉する 1616(20才) 家康(75才)没、落飾 1625(29才) 日光にて急死〔3月28日〕 .家康の死没により、剃髪し「養儼院」と号しました。ときに20才。容色を自慢して、いつも髪を伸ばしていたといいます。田安比丘尼屋敷に住む。 .秀忠の指示でのちに還俗し、喜連川家に嫁したと伝えられます。 .29才のとき、日光参詣中に急死。東照社の香炉が割れて額にあたり、それがもとで死去したといい、世人は家康が他家に嫁したお六の方に嫉妬したためだと噂しました。 .日光山中の養儼院に葬られました。 |
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