秀吉の母と姉妹

母:なか..1513〜1592
(号:大政所、法名:天瑞院)
    1534(22才)この頃弥右衛門と結婚、長女・とも誕生
    1537(25才) 秀吉(日吉丸)誕生
    1540(28才) 秀長(小竹)誕生
    1543(31才) 旭姫誕生
    1574(62才) 秀吉、近江長浜城を築城、この頃中村より長浜城に移る
    1582(70才) 本能寺の変、秀吉、山崎の戦いで明智軍を破る
    1583(71才) 秀吉、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破る(4月)、大坂城を築城(9月)
    1585(73才) 秀吉、従一位、関白となるに伴い、従一位を叙され、大政所と称される
    1586(74才) 旭姫、徳川家康に嫁ぐ(5月)、旭姫見舞いの名目で、岡崎に赴く(9月)
    1590(78才) 旭姫、京都にて没
    1591(79才) 秀長没(1月)、秀吉の子・鶴松没、秀吉朝鮮出兵を発表する(8月)
    ........長女ともの子・秀次関白となり、秀吉太閤となる
    1592(80才) 大坂城にて死去〔7月22日〕
  • 所生の子女
    とも(三好吉房室)
    秀吉(関白)
    秀長(大和郡山城主・大納言)
    旭姫(佐治日向守室、徳川家康室)
*はじめ尾張国愛知郡中村の農家・弥右衛門と結婚、とも(瑞竜院)と秀吉を生む。弥右衛門と死別後、同村の筑阿弥と再婚しました。秀長と旭姫を生みましたが、二人の生年が弥右衛門の生前のため、弥右衛門の子であるという説もあるそうです。
秀吉が近江国長浜城主になった際、城主の母として迎えられ、後に大阪城に移り、秀吉関白就任に伴い大政所と称され、従一位になりました。
秀吉の母に対する敬愛は、とりわけ深かったといわれます。

姉:とも..1534〜1625
(法名:瑞竜院日秀、村雲尼)
父:弥右衛門
母:なか(大政所)
    1574(41才) 秀吉、近江長浜城を築城、この頃中村より長浜城に移る
    1585(52才) 秀吉、従一位、関白となる
    1590(57才) 夫吉房、尾張犬山城主・のち清洲城主となる
    1591(79才) 秀吉の子・鶴松没 (8月)、長男・秀次関白となり、秀吉太閤となる
    1592(59才) 次男・秀勝、朝鮮出兵中に没
    1595(62才) 長男・秀次切腹、夫吉房連座により讃岐に配流、三男・秀保病死
    1596(63才) 長男・秀次の供養のため、京に瑞竜寺を建立
    1598(65才) 秀吉没
    1600(67才) この頃、夫・三好吉房没
    1615(72才) 大坂夏の陣、豊臣家滅亡
    1625(92才) 死去〔4月20日〕
  • 所生の子女
    秀次(孫七郎、秀吉養子・関白)
    秀勝(小吉、秀吉養子・丹波亀山城主・美濃岐阜城主)
    秀保(辰千代、秀長養子・大和郡山城主)
*秀吉の3才年上の同母姉。農民の弥介と結婚し、三男を生みました。弟秀吉の立身により、夫弥介は武士となって木下姓を名乗り、後に阿波の名族三好姓を与えられて、三好武蔵守吉房となります。
長男・秀次は秀吉の後継者と目され、関白にもなったが、乱行を理由に切腹。夫三好吉房も連座して讃岐に流され、ともは剃髪して日秀と称し、菩提を弔いました。
次男秀勝、三男秀保も若くして病死し、さらに秀吉の死、豊臣氏の滅亡まで見て、92才の長寿で没しました。

妹:旭姫..1543〜1590
(朝日方、号:駿河御前、法名:南明院)
父:筑阿弥
母:なか(大政所)
    1574(32才) 秀吉、近江長浜城を築城、この頃中村より長浜城に移る
    1585(43才) 秀吉、従一位、関白となる
    1586(44才) 佐治日向守と離縁
    ........滝川雄利らが使者となり家康に旭姫との縁組みを伝える(2月)
    ........家康の臣・榊原康政が遣わされ、大坂城にて結納(4月13日)
    ........浜松城にて婚儀(5月14日)
    ........家康に伴い、駿府城に移る(12月)
    1588(46才) 母大政所の見舞いのために上洛、そのまま駿河に帰らず留まる
    1590(48才) 聚楽第にて死去〔1月14日〕
*秀吉の6才下の異父妹。もしくは同父妹。はじめ尾張の地侍・佐治日向守(もしくは福田甚兵衛)と結婚。
徳川家康との講和のため、秀吉の命令によって離縁。天正十四年家康の正室として浜松城に輿入れします。時に44才。
その後、家康が浜松から駿府に移ったので、一時「駿河御前」と呼ばれました。
わずか3年の後、母大政所の見舞いを理由に上洛し、駿河に帰らず京都・聚楽第にて死去しました。遺体も駿河には帰らず、京都・東福寺に葬られました。生前駿府にいた頃しばしば参詣した寺(瑞竜寺)にも供養塔が立てられ、瑞竜院殿の法名があります。後に家康はこの寺に朱印状を発し、旭姫の永世供養を命じました。