秀吉の正室とその周辺

正室:お禰..1548?〜1624
(号:北政所、法名:高台院)
父:木下定利
母:朝日(杉原家利の女)
養父母:浅野長勝・七曲
    1561(14才)この頃、秀吉(25才)と結婚
    1573(26才) 秀吉、小谷城を賜わり北近江領主となる
    1574(27才) 秀吉、長浜城を築城
    1582(35才) 本能寺の変
    1585(38才) 秀吉、従一位・関白となるに伴い、従三位を叙され、北政所と称される
    1588(41才) 従一位・准三后となる
    1591(44才) 秀吉、関白職を甥の秀次に譲り、太閤となる
    1598(51才) 醍醐の花見に出席(3月)、秀吉(62才)伏見城にて没(8月)、出家
    1599(52才) 新造大坂城本丸に秀頼母子入城(1月)
    ........大坂城西の丸より京・三本木に移り、家康が西の丸に入る(9月)
    1600(53才) 関ヶ原の戦い
    1605(58才) 高台寺を建立
    1615(68才) 大坂城落城、淀殿・秀頼母子没
    1624(77才) 高台寺にて死去〔9月6日〕
  • 養子女
    豪姫(前田利家四女、宇喜多秀家室)
    小早川秀秋(木下家定五男、岡山城主)
*秀吉の正室。秀吉の11才(ぐらい)年下です。14才ぐらいで織田家足軽であった秀吉と結婚しました。
以後、秀吉の急激な出世にも変わらず妻として夫を支え、秀吉子飼いの武将たちにも慕われました。
終生実子をもうけることはありませんでしたが、正室として秀吉関白就任後は北政所と称されました。
秀吉とは老年になってからも、戦陣からも頻繁に手紙のやり取りをするほど仲が良く、秀吉生前は大坂城奥方を取り仕切りました。
醍醐の花見では、一番目の輿に乗りました。鶴松・秀頼に対しても、嫡母として遇され、「まんかかさま」と称されました。
しかし、秀吉の死により出家。本丸にいる淀殿・秀頼母子に対し西の丸にいましたが、やがて大坂城を出て京に入りました。豊臣氏滅亡の折り、燃え盛る大坂城の炎は、京都からも眺められたといいます。その9年後、お禰は死去しました。

姑:朝日.. ? 〜1598
父:杉原家利
  • 所生の子女
    家定(備中足守藩主)
    お禰(関白 豊臣秀吉室)
    やや(浅野長勝室)
*お禰の母。義母との説も有り。秀吉と娘との結婚を許さず、秀吉が天下人になった後も不仲だったといいます。

義姑:七曲..生没年不詳
父:杉原家利

*織田家の弓衆・浅野長勝の妻で、お禰の養母。母・朝日の姉妹。
朝日夫妻が秀吉とお禰の結婚を認めなかったため、叔母夫婦である浅野夫妻の養女となり、秀吉に嫁したといいます。そのため秀吉も、自分の舅姑は浅野長勝夫妻であるといい、お禰の実家・木下氏よりも、養家である浅野氏を重んじたそうです。

義妹:やや.. ? 〜1616
(法名:長生院)
父:木下定利
母:朝日(杉原家利の女)
養父母:浅野長勝・七曲
  • 所生の子女
    幸長(紀伊和歌山藩主)
    長晟(幸長養嗣子、安芸広島藩主)
    長重(常陸笠間藩主)
    女(杉原長房室)、女(堀親良室)、女(松平定綱室)
*お禰の妹。叔母夫婦である浅野長勝・七曲の養女となり、一族の浅野長政を婿養子として浅野家を継ぎました。夫・長政は妻の縁で秀吉の家臣となります。
お禰の養家でもある浅野家は重んじられ、彼女の子孫は大大名・広島藩主浅野氏として永く続きました