秀吉の側室

側室:茶々..1568?〜1615
(号:淀殿・西の丸殿・二の丸殿)
父:小谷城主 浅井長政
母:お市(織田信秀の女)
    1573(6才) 小谷城落城、父長政・弟万福丸・祖父母没
    1582(14才) 本能寺の変
    1583(15才) 北ノ庄城落城、母お市・義父勝家没、秀吉の元に身を寄せる
    1589(21才) 淀城にて鶴松(棄)を出産(5月)、鶴松と伴に大坂城入城(8月)
    ........両親(長政・お市)の画像を高野山・持明院に奉納
    1590(22才) 秀吉の招きにより小田原の陣中に赴く
    1591(23才) 鶴松(3才)、淀城で没
    1592(24才) 朝鮮出兵のため秀吉名護屋城に赴き、淀殿・松の丸殿を伴う(10月)
    ........懐妊により大坂に帰る
    1593(25才) 伏見城にて秀頼(拾)を出産、秀吉大坂に帰る(8月)
    1594(26才) 父母供養のため、養源院を建立
    1598(30才) 醍醐の花見に出席(3月)、秀吉(62才)伏見城にて没(8月)
    1599(31才) 新造大坂城本丸に秀頼と伴に入城
    1600(32才) 関ヶ原の戦い
    1603(35才) 徳川家康将軍就任(2月)、秀頼、千姫と婚儀
    1614(46才) 大坂冬の陣
    1615(47才) 大坂夏の陣、秀頼(23才)らと伴に自刃〔5月8日〕
  • 所生の子女
    鶴松(棄)
    秀頼(拾)
*北近江を支配していた浅井長政と信長の妹・お市の長女。
幼くして小谷城の落城に遭い、母お市と妹たちとともに信長方に送られました。父長政と祖父久政は自刃、別に逃がされた兄弟の万福丸は串刺しの刑、祖母小野殿も処刑されました。
信長保護下で母・妹らとともに9年を過ごした後、信長の死後の権力争いから、母お市が柴田勝家の妻となり、茶々ら姉妹も母に伴って北ノ庄城に移りました。が、半年余りで秀吉軍により落城し、義父勝家と母お市は自刃。姉妹は秀吉の庇護に入ります。
その後しばらくして秀吉の側室となり、鶴松、次いで秀頼を生んだことで側室筆頭の位置を占めます。秀吉の寵愛も厚く、小田原・名護屋の両陣にも伴われました。伏見城にいた頃は「西の丸殿」、大坂城時代は「二の丸殿」、また淀城を与えられたことから「淀殿」と呼ばれました。
醍醐の花見では、北政所お禰の次の、二番目の輿で参加しました。
秀吉の死後は、秀頼に伴い、大坂城本丸に入城。大坂の女城主的な地位に登りました。
しかし、武断派の大名達と疎遠であり、神仏への厚い崇拝から散財をし、また感情的で誇りにしがみついたことが、豊臣家滅亡の引き金となりました。
関ヶ原の戦い、大坂冬の陣を経て、大坂夏の陣、秀頼ほか近臣の者たちと共に自刃。大坂城は火薬庫に火が移った事で吹き飛び、淀殿の遺体も焼失しました。

側室:摩阿..1572〜1605
(号:加賀殿)
父:金沢城主 前田利家
母:まつ
    1582(11才) 柴田勝家家臣・佐久間十蔵(14才)と婚約、北ノ庄城に入る
    1583(12才) 賎ヶ岳の戦、婚約者・十蔵自刃、城外へ逃れる
    1585(14才) 秀吉の側室となる
    1598(27才) 醍醐の花見に出席(3月)、病気療養のため側室を辞す
    ........秀吉(62才)伏見城にて没(8月)
    1605(34才) 死去〔10月13日〕
  • 所生の子女
    (父:万里小路充房)前田利忠
*前田利家の三女。はじめ柴田勝家の家臣・佐久間十蔵と婚約し、人質として北ノ庄城にいましたが、落城に際し秀吉と両親の計らいで城外に逃れました。後、秀吉の側室となりました。
病気がちでしたが、秀吉の配慮は深く、醍醐の花見の折りは、五番目の輿に乗りました。
13年後、病気療養のため側室を辞し、公家・万里小路充房と結婚、一子利忠をもうけました。しかし、しばらくして離縁し、金沢に帰りました。間もなく死去。子供は前田家に引き取られました。

側室:京極 竜子.. ? 〜1634
(号:松の丸殿)
父:近江国上平寺城主 京極高吉
母:(浅井久政の娘・洗礼名マリア)
    1582.. 夫・元明戦死、秀吉の側室となる
    1590.. 小田原陣中に赴く、弟・高次、近江八幡城主となる
    1595.. 弟・高次、近江大津城主となる
    1593.. 伏見城完成、松の丸に住む
    1598.. 醍醐寺にて花見の宴(3月)、秀吉(62才)伏見城にて没(8月)
    ..... 弟の居城大津城に身を寄せる
    1600.. 関ヶ原の戦い、西軍、大津城を攻めるが和議成立
    1615.. 豊臣氏滅亡、秀頼の子・国松の遺体を引き取り、誓願寺に埋葬する
    1634.. 死去〔9月1日〕
  • 所生の子女
    (父:武田元明)一男一女
*大津城主・京極高次の姉妹。はじめ若狭国守護武田元明と結婚し、一男一女を生みました。夫・元明と兄弟の京極高次が、本能寺の変後、明智光秀に味方したために、夫は秀吉の軍に討たれ、高次は一時追われ、彼女自身は捕らえられました。
この後、秀吉の側室となり、寵愛を受けました。伏見城松の丸に住んだことから「松の丸殿」と称されます。小田原・名護屋の戦陣でも淀殿とともに赴き、醍醐の花見では、淀殿の次三番目の輿に乗りました。
秀吉死後は、兄弟高次の居城大津城に身を寄せました。
関ヶ原の戦い後、出家し、京の誓願寺に住みました。大坂夏の陣後、豊臣秀頼の子で京で処刑された国松の遺体を引き取り、誓願寺に埋葬しました。この墓は、明治に松の丸殿自身の墓とともに豊国廟に移りました。
絶世の美女であったといわれます。

側室:(三の丸殿).. ? 〜1603
父:織田信長
母:(織田信忠の乳母)
養父:蒲生氏郷
    1582.. 本能寺の変、父信長没
    1598.. 醍醐寺にて花見の宴(3月)、秀吉(62才)伏見城にて没(8月)
    1599.. この頃、元関白・二条昭実と結婚
    1603.. 死去〔2月5日〕
*織田信長の六女(?)。信長没後に姉の夫・蒲生氏郷の養女となり、のち秀吉の側室となります。伏見城三の丸に住んだので「三の丸殿」と称されました。
醍醐の花見には四番目の輿に乗って参加しました。歌が三首、「さかえゆく 君にひかれて この春は 深雪の桜 初めてぞ見ゆ」「常盤なる 松にならひて 咲く花は なを白妙に 色やみゆらむ」「山桜 袖に匂ひを 移しつつ 帰るさ惜しき 今日の暮れかな」。
秀吉死後に二条昭実と結婚しました。が、それからまもなく20代後半で没。

側室:とら..生没年不詳
(号:三条殿)
父:近江日野城主 蒲生賢秀

*日野城主、後の会津城主・蒲生氏郷の妹。晩年の秀吉に愛されました。1594年、秀吉より出された手紙では、瓜畑遊び・舟遊びに誘われています。

側室:(姫路殿)..生没年不詳
父:伊勢安濃津城主 織田信包

*織田信包の娘。信長の姪。
秀吉が姫路城にいた時代に側室となったと思われますが、詳細は不詳。
お市の方は小谷城より逃れてから信包の居城にいたらしく、お市の同母兄の娘であるかもしれません。

側室:(広沢局)..1573〜1637
(広子、法名:妙広禅尼・広沢院殿)
父:肥前添垣城主 名護屋経勝
    1592(20才) 秀吉(56才)、名護屋城に到着(4月)、間もなく側室となる
    1593(21才) 秀吉大坂に帰る(8月)
    1597(25才) 名護屋城山里丸の一角に広沢寺を建立
    1598(26才) 秀吉(62才)没(8月)、出家(9月)
    1636(64才) 死去〔9月18日〕(異説あり)
*記録の残る中では、秀吉の迎えた最後の側室といわれています。
朝鮮遠征の基地となった名護屋において、秀吉の側室なりました。他にも名護屋には、大坂から淀殿・松の丸殿が呼び寄せられていました。懐妊により淀殿が大坂に帰り、やがて秀頼誕生によって秀吉も大坂に引き上げ、二度と戻ってきませんでした。
広沢局は名護屋城に残り、依然続く遠征で大都市となっていた名護屋で、太閤の側室の一人として厚遇されました。
秀吉に願い出て、名護屋城の山里丸の一角に広沢寺を建立。翌年、秀吉の死に伴い出家し、妙広禅尼と称し、広沢寺に住みました。遠征の中止によって名護屋城は解体され、広沢寺を残して山野へと帰りました。

側室:嶋女.. 1568〜1655
(法名:月桂院)
父:喜連川頼純
母:(佐野大炊介政綱女)
    1590(23才) 小田原の陣に続き、奥州仕置きのため秀吉関東を通る
    ..... 秀吉側室となる、喜連川三千八百石を与えられる
    1598(31才) 秀吉(62才)没(8月)、京にて出家
    1649(82才) 喜連川藩主・昭氏(頼氏の曾孫)より、領内大槻村梶内の地一〇〇石を寄付される
    1652(85才) 江戸市ヶ谷に平安寺を再興し、月桂寺と改称する
    1655(88才) 死去
*足利氏の関東管領・古河公方の分家、小弓御所・足利喜連川家の姫。
はじめ、おなじく源義家の血を引く名家、塩谷氏の倉ヶ崎城主・惟久の妻でした。秀吉が小田原征伐を終え、奥州仕置きに向かう際に惟久は逃亡し、嶋女は秀吉の立ち寄った宇都宮に向かい側室となりました。
秀吉は彼女に、喜連川三千八百石の化粧料(所領)を与え、彼女はこの所領を弟・国朝と古河公方の直系・氏姫を結婚させて継がせました。国朝の死後はそのまた弟の頼氏が氏姫の夫となり、領主となりました。徳川幕府にさらに一千石を加えられ、喜連川藩五千石となります。

側室:甲斐姫..生没年不詳
父:武蔵国忍城主 成田氏家
母:(金山城主 横瀬成繁の女)
    1590.. 小田原の陣、父・氏家小田原城に赴く(2月)
    ..... 忍城を石田三成らの軍勢が囲む(6月)、小田原城陥落、忍城開城(7月)
    ..... 秀吉側室となる
    1591.. 父・氏家、下野烏山城主となる
    1595.. 父・氏家没
*北条氏家臣・成田氏家の長女。軍猛果敢にして東国一の美女といわれました。
父氏家には男子がなく、三人の娘の長女である甲斐姫を特に可愛がり、学問・兵術・武術を教えました。
小田原攻めの際、父氏家が小田原城に馳せ参じて留守の忍城を、秀吉配下・石田三成等の軍勢二万三千が攻めたが、甲斐姫や氏家正室(甲斐姫の義母)、妹の巻姫・敦姫らが指揮をとり、城内に引き入れた町民も手伝って奮戦しました。ことに甲斐姫は自ら鎧兜を付け、戦陣に出て敵を翻弄したといわれます。真田昌幸・幸村父子、浅野長政勢が援軍に差し向けられても、依然落ちず、小田原城陥落まで持ちこたえました。
開城の際、甲斐姫と二人の妹、義母はいずれも甲冑を付け、馬に乗り、城を出たといいます。
その後、秀吉の側室となりました。父氏家は小田原城で秀吉と内通の約束をしていたものの果たせず、所領を没収されましたが、甲斐姫のとりなしで下野国烏山城主となりました。

側室:(南の局)..生没年不詳
父:鳥取城主 山名豊国
    1580.. 秀吉、鹿野城を攻め、奪った人質を盾に鳥取城の開城を迫る
    1581.. 父豊国、家臣たちにより鳥取城を追放、鳥取城再び落城(10月)
    ..... この頃秀吉側室となる
*名族・山名氏の末裔、零落した鳥取城主豊国の娘。
信長の家臣であった秀吉が中国地方に遠征した際、山名豊国は毛利の配下であり、娘をはじめ家臣の妻子も毛利の人質として鹿野城に置かれていました。秀吉はまずこの城を攻め、奪った人質を盾に開城を迫りました。家臣の妻子が殺された後、ついに娘を磔木に縛られ、父はついに開城しました。
その後、豊国は家臣達から追放され、城は毛利に寝返りましたが、秀吉の食糧封鎖に遭い再び落城しました。豊国は出家して秀吉のお伽衆となり、娘は秀吉側室となって「南の局」と呼ばれました。
それ以後の彼女については不詳ですが、彼女の侍女の一人・吉岡右近の娘が毛利家のスパイであり、秀吉が死んだらすぐに毛利方に知らせるのが任務であったという記述から、秀吉晩年まで側室として仕えていたようです。

側室:お種の方.. ? 〜1640
(号:香の前、法名:安楽院)
父:地侍 高田次郎左衛門
    1594.. この頃、伊達政宗家臣・茂庭綱元(46才)に下賜される
    1598.. 秀吉(62才)没(8月)
    1636.. 政宗(70才)没
    1640.. 綱元(92才)没、死去〔12月〕
  • 所生の子女
    (父:茂庭綱元か伊達政宗) 宗根(又次郎、高清水領主亘理家養子)
    .................津多(慶月院・原田宗資室)
*伊達政宗家臣・茂庭綱元(もしくは政宗自身)との賭け碁の賞品にされた側室。
碁に勝った綱元の妻となり、仙台に移って一男一女を生みました。男子宗根は政宗の胤であると言われていて、伊達親族の亘理家の婿養子となり、元服の際は政宗の一字を与えられました。
肌が匂いたつように美しく、かつ梅の花を好んだため、「香の前」と称されました。
晩年は亘理家を継いだ宗根の身を寄せ、政宗・綱元に続いて死去しました。ちなみに、女子津多(慶月院)は、伊達騒動で罪を着た原田甲斐宗輔の母です。

側室:(南殿)..生没年不詳
    1576.. 石松丸秀勝没
  • 所生の子女
    秀勝(石松丸)
*「竹生嶋奉加帳」に記載された女性。秀吉の近江長浜時代の側室で、秀吉の男児・石松丸秀勝の生母と推定されています。
石松丸秀勝は、1576年に幼くして早世しました。
南殿と石松丸秀勝の存在が取り沙汰されたのは近代に入ってからで、実名・家系・経歴は全くの不詳です。

側室:おふく..1528〜1594
(号:備前殿、法名:法鮮尼)
父:三浦能登守
    1559(12才) この頃、備中高田城主・三浦貞勝(22才)と結婚か?
    1565(18才) 高田城落城、夫・三浦貞勝自刃、桃寿丸を連れ落ちのびる
    1570(23才) この頃、備前沼城主(のち岡山城主)・宇喜多直家(41才)と再婚
    1572(25才) 秀家(八郎)誕生
    1581(34才) 直家(53才)没
    1582(35才) 秀家(11才)と宇喜多家臣、秀吉に伴われて信長に謁見(1月)
    ........本能寺の変(6月)
    1588(41才) 秀家(17才)と秀吉養女・豪姫(15才)結婚
    1594(47才) 死去〔12月11日〕
  • 所生の子女
    (父:三浦貞勝) 桃寿丸
    (父:宇喜多直家) 亀松(早世),秀家(八郎・岡山城主)
*秀吉の養子となった、後の五大老の一人・岡山城主宇喜多秀家の母。正式な側室ではなかったでしょうが、側室的な存在と言われています。
鎌倉の名族三浦氏の末裔で、初め一族の備中の高田城主・三浦貞勝に嫁ぎ、嫡子桃寿丸を生みました。しかし、高田城の落城、夫の戦死に際し、桃寿丸を連れて備前に逃れました。その後、備前を掌握していた宇喜多直家に妻にと求められ、桃寿丸を連れて再嫁、亀松・八郎秀家らを生みました。
直家は西進してくる織田配下の秀吉軍に対し、毛利氏から離れて織田方に付きましたが、間もなく死去。おふくの子・八郎(秀家)が秀吉の後押しのもと、後を継ぎました。
後に天下人となった秀吉は、八郎に自らの一字を与え、養子とし、さらに養女豪姫と結婚させました。
秀吉の死も、後の宇喜多秀家の流罪も見ずに、栄華の内に没したという説が有力です。