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養女:豪姫..1574〜1634 .(於語、号:備前御方・南御方、法名:樹正院) 父:金沢城主 前田利家 母:まつ(芳春院) 養父母:豊臣秀吉・お禰
1588(15才) 岡山城主・宇喜多秀家(17才)と結婚 1598(25才) キリシタンとなる、養父・豊臣秀吉没 1599(26才) 父・前田利家没 1600(27才) 関ヶ原の戦い、秀家西軍として出陣 ........敗走後、美濃山中、ついで島津氏領内に逃れる ........宇喜多家の所領は没収、前田家屋敷に身を寄せる 1603(30才) 秀家、駿府の徳川家康の元に送致される 1606(33才) 秀家(35才)、長男秀高(15才)、次男秀継(8才)、近習ら、八丈島に流刑 ........一女を連れ金沢城下に身を寄せる 1609(36才) 前田家、八丈島の宇喜多一族に白米・金子・衣服・薬などを送る ........(以後毎年送られる) 1614(41才) 異母弟・利常、金沢藩主に就任 1617(44才) 母・まつ没 1624(51才) 養母・お禰没 1634(61才) 死去〔5月23日〕
.二人に愛され、15才で同じく秀吉養子の宇喜多秀家と結婚。夫婦仲は良く、二男一女を生みました。 .病弱で産後にしばしば大病にかかり、安産の祈願や病平癒の祈祷を行いました。25才の時、受洗を約束したところ病が治ったため、内藤ジュリアの手引きでキリシタンになりました。 .秀吉の死後、関ヶ原の戦いにおいて、夫・秀家は西軍の副大将として参戦し、戦後、追われて死亡したと見せかけ、島津氏の領内に身を寄せました。しかし、3年後駿府に送致され、久能山に幽閉後、八丈島に流罪。豪姫との間の二男も伴に流されました。 .豪姫は娘を連れて実家・前田氏の金沢に帰り、化粧料千五百石と城下の屋敷を与えられ、晩年を過ごしました。 .豪姫の実家・前田家は、豪姫の遺志を尊重し、藩主が代わっても代々一年おきに白米七十俵、金子三十五両、衣服、雑具、薬などを、宇喜多一族の赦免の日まで八丈島に送り続けました。宇喜多一族が赦免され、東京板橋に移ったのは明治六年、流罪から二百六十七年の後でした。 |
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