| 和珥氏の女たち |
| (和珥)・・・畿内・大和の豪族。祖は天足彦国押人命。奈良盆地東北部・春日の辺りを本拠とします 葛城氏や蘇我氏のように一族である妃所生の皇子女から天皇を出すことはありませんでしたが、后妃を多く輩出し、孫世代からの皇后も何人かいました。 欽明天皇の頃に名が見えなくなり、春日氏に改姓したと推測されています。 |
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姥津媛【おけつひめ】 兄:姥津彦命
.彼女の生んだ彦坐王には古事記に数多くの妻子が列挙されており、多くの氏族の祖とされています。この彦坐王の系統から出た皇后も3人、11代垂仁天皇后・狭穂姫(娘)、同じく日葉酢姫(孫)、14代仲哀天皇后・気長足姫(曾孫)が います。 |
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宮主宅媛【みやぬしのやかひめ】 .<宮主矢河比売(古事記)> 父:和珥日触使主
.古事記によると、菟道稚郎子皇子は父・日触使主とともに宇治の辺りに住んでいたようです。応神天皇の求婚譚があります。 .媛の所生の皇子・菟道稚郎子皇子は応神天皇に皇太子に指定され、渡来人・王仁を家庭教師としました。しかし応神天皇の死後、兄・大鷦鷯皇子(後の仁徳帝)と帝位を譲り合い、即位せぬままに3年後死没したと伝えられ、播磨風土記に「宇治天皇」とあります。あるいは皇位をめぐる騒動があったのかもしれません。 .死に際し、菟道稚郎子皇子は同母妹・八田皇女を仁徳帝の後宮に入れるよう頼んだといいます。が、これも後世に加えられたものでしょう。 .この頃の記述には、皇子の母である宮主宅媛は登場せず、既に没していたのでしょうか。 .長女・八田皇女は仁徳帝の妃となり、先の皇后葛城磐之媛の没後、皇后になりました。次女・雌鳥皇女は仁徳帝の妃となるのを拒否し、別の異母兄弟・隼別皇子の妻となりましたが、夫とともに謀反の疑いにより討たれ、逃亡中に佐伯直らに殺されました。 |
小 媛【おなべひめ】.<袁那弁郎女(古事記)> 父:和珥日触使主
.媛の所生の皇女・菟道稚郎子皇女は、古事記によると異母兄の仁徳帝の妃となりましたが、子供はなかったといいます。この結婚も、仁徳帝と伯母の宮主宅媛の子・菟道稚郎子皇子との皇位継承に関する騒動と関連しているものでしょうか。 |
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津野媛【つのひめ】 .<都怒郎女(古事記)> 父:木事(大宅臣の祖)
.父の大宅臣木事は、古事記では丸邇之許碁登(わにのこごと)とある。大宅臣は和珥氏の同族の一つ。 .なお、安康朝の記事に、小泊瀬皇子(のちの雄略天皇)が反正帝の皇女達を妃にしようとしたが、みな皇子の乱暴な性格を嫌って従わなかったとあります。反正帝には津野媛の娘たちを含めて3人の皇女がいます。 |
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弟媛【おとひめ】 .<弟比売(古事記)> 父:木事(大宅臣の祖)
.古事記では、財王と多訶弁(たかべ)郎女を生んだとし、高部皇子が女子になっています。 |
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童女君【おんなぎみ】 父:春日和珥臣 深目
.一夜召したところ妊娠し、雄略帝は疑って生まれた娘を認知しませんでした。娘・春日大娘が歩くようになったころ、側近の物部目連が、天皇に良く似ている、一晩に七回も召して疑うのはよくない等々進言し、雄略帝は童女君を妃に、娘を皇女としました。 .春日大娘皇女は、のちに24代仁賢天皇后となり、25代武烈天皇、26代継体天皇后・手白香皇女、28代宣化天皇后・橘仲皇女などの母となります。 |
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糠君娘【あらきみのいらつめ】 .<大糠娘> 父:和珥臣 日爪
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【はえひめ】父:和珥臣 河内
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(春日)糠子【あらこ】 父:春日 日抓臣
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(春日)老名子【おみなご】 .<薬君娘、老名子郎女、老名君> 父:春日臣 仲君
.難波・春日の二皇子は、蘇我・物部の戦いに蘇我氏側として参戦しました。春日氏も同じく蘇我氏側として参戦しています。 |
番外:春日娘子【かすがのいらつこ】
.あるいは「春日」、即ち和珥氏一族出身の女性という意味か? .武烈帝の母は、和珥氏の母を持つ春日大娘皇女であり、血縁的に近い。 |
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