元明天皇

阿閇 【あへ】..661〜721(在位;707〜715)
<諡号:日本根子天津御代豊国成姫天皇>
父:天智天皇
母:蘇我姪娘(右大臣 蘇我倉山田石川麻呂の女)
    661(1才) 誕生(この年、朝廷は百済復興のための遠征中)、父・中大兄36才
    668(8才) 父・天智天皇(43才)即位、母・姪娘、嬪となる(この頃近江大津宮)
    671(11才) 父・天智天皇(46才)没
    672(12才) 壬申の乱、異母兄・大友皇子敗死
    673(13才) 叔父・天武天皇即位、飛鳥浄御原宮に移る
    675(15才) 十市皇女とともに伊勢神宮に参赴する(2月)
    679(19才) この頃、草壁皇子(18才)と結婚か?
    680(20才) 長女・氷高(元正天皇)誕生
    681(21才) 草壁皇子(20才)立太子(2月)
    683(23才) 長男・珂瑠(文武天皇)誕生
    686(26才) 天武天皇没、持統天皇称制始まる(9月)
    689(29才) 草壁皇子(28才)没(4月)
    690(30才) 持統天皇(46才)即位(1月)
    694(34才) 藤原京に遷都される(12月)
    697(37才) 長男・珂瑠皇子(文武天皇・15才)立太子(2月)、文武天皇即位(8月)
    701(41才) 孫・首皇子(聖武天皇)誕生
    702(42才) 持統太上天皇没(12月)
    707(47才) 草壁皇子の薨日が国忌に入る(4月)
    ....... 文武天皇(25才)没(6月)、即位(7月)
    ....... 授刀舎人寮を設置
    708(48才) 和銅に改元(1月)、石上麻呂を左大臣、藤原不比等を右大臣とする(3月)
    ....... 和同開珎(銅銭)を用いる(8月)
    ....... 造平城京司を置く(9月)
    ....... 伊勢大神宮に奉幣し新都造営を告げる(10月)
    710(50才) 平城京に遷都(3月)
    711(51才) 太安万侶に古事記の撰録を命じる(9月)
    ....... 蓄銭叙位令を発布する(10月)
    712(52才) 太安万侶、古事記の完成を奏上する(1月)、出羽国設置(9月)
    713(53才) 諸国に対し風土記の編纂を命じる(5月)、木曽路開通(7月)
    714(54才) 国史の撰修を命じる(2月)
    ....... 孫・首皇子(14才)元服・立太子(6月)
    715(55才) 初めて礼服の皇太子首皇子(15才)の朝覲を受ける
    ....... 氷高内親王を一品とする(1月)
    ....... 吉備内親王所生の男女を皇孫待遇とする(2月)
    ....... 土断法・義倉法が施行される(5月)、都祁山道開通(6月)
    ....... 知太政官事穂積親王没(7月)
    ....... 長女・元正天皇(36才)に譲位、太上天皇となる(9月)、霊亀に改元
    716(56才) 藤原安宿媛(光明子)、皇太子首皇子の妃となる
    717(57才) 石上麻呂没(3月)
    718(58才) 曾孫・阿倍(孝謙・称徳天皇)誕生
    720(60才) 藤原不比等没(8月)
    ....... 舎人親王を知太政官事、新田部親王を知五衛及授刀舎人事とする
    721(61才) 長屋王を右大臣とする(1月)
    ....... この頃より病に伏す(5月)、藤原房前を内臣とする(10月)
    ....... 崩御〔12月7日〕
    (奈保山東陵に葬られる)
  • 所生の皇子女
    680〜748 氷高(元正天皇;在位715〜724)
    683〜707 珂瑠(文武天皇;在位697〜707)
*天智天皇皇女。蘇我姪娘の二女。
 甥であり従兄弟でもある草壁皇子(天武天皇皇太子)の妃となりました。草壁皇子の早世により皇后冊立はならなかったものの、長男・文武天皇が即位。文武天皇の早世により、その子首皇子(聖武天皇)までの中継ぎとして即位しました。皇后経験者以外での初めて女帝です。
 和風諡号は日本根子天津御代豊国成姫(やまとねこあまつみしろとよくになりひめ)天皇。
 草壁皇子との間に元正天皇・文武天皇。また確かではないが吉備内親王(長屋王室)も所生である可能性があります。
 29才のとき夫・草壁皇子に死別。8年後の持統十一年(697)、15才となった長男・珂瑠皇子が持統天皇の譲りを受け即位(文武天皇)。皇太妃の尊号を受けたらしく、藤原京跡からは皇太妃宮職に関する木簡が出土しています。
 慶雲四年(707)6月、文武天皇の遺詔により即位。嫡流相続を定めたという天智天皇の「不改常典」により、文武天皇の長子・首皇子の成長までの中継ぎの天皇としてのものでした。
 7年間の治世は律令国家への円熟期にあり、父・天智帝の近江朝の遺臣石上麻呂を左大臣とし、鎌足の子不比等を右大臣に据え、律令制度の整備に努めました。平城京の造営と遷都、貨幣・和同開珎の鋳造、『古事記』の完成・『風土記』の編纂など数多くの業績が成し遂げられました。
 和銅七年(714)6月、首皇子が元服。翌八年初めて礼服での皇子の朝覲をうけ、続いて諸臣の位階を進め、皇女氷高内親王(元正天皇)を一品とし、吉備内親王所生の子女を皇孫(二世王)の待遇に加えた後、氷高内親王に譲位。太上天皇となりました。
 養老五年(721)5月頃より病に伏し、10月長屋王と藤原房前を病床に召して後事を託し、さらに房前を内臣(令外官。後に制度化され内大臣)に任じて元正天皇の補佐にあてた後、12月7日に崩御しました。
 遺詔して葬送の簡素化を命じ、「刻字の碑」(出土し現存)を建立しました。

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